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総合文化展-東博からトーハクへ? [美術館・博物館]

東京国立博物館 本館
1「総合文化展」
2「本館リニューアル記念 特別公開」
3「新春特別展示 博物館に初もうで 美術のなかのうさぎと国々のお祝い切手」
会期:1=2011.1.2(日)~
   2=2011.1.2(日)~1.16(日)
   3=2011.1.2(日)~1.30(日)
訪ねた日:2010.1.12
書いた日:2010.1.21


東京国立博物館の平常展が「総合文化展」と改称、展示も新しくなったそうなので、早速見に行ってきました。

「総合文化展」は元の平常展のことです、1月2日に新装開館されました。

「本館リニューアル記念 特別公開」は、期間限定展示の国宝・重文で、
各展示室の通常の展示の中に、タイトルを赤い台紙にして特に目立つように展示されたものたちです。
(記載のないものは上記の通り1.16まで)
雪舟等楊「秋冬山水図」<国宝室にて、2.6まで>
現存最古の完全遺品「元永本古今和歌集」
「熊野懐紙」<1.23まで>
狩野永徳最晩年の作といわれる「檜図屏風」
尾形光琳「風神雷神図屏風」
葛飾北斎「冨嶽三十六景」<2.13まで>
いずれも普通なら一点で特別展が開催できる名品です。
これらがごく当たり前に「平常展示」の中に並ぶ様は、
いつもここで小さく叫んでいますが、東博の凄さと言えます。

「新春特別展示 博物館に初もうで 美術のなかのうさぎと国々のお祝い切手」は、
本館2階特別2室に、干支にちなんだ兎や、新春の寿ぎにまつわる文化財を集めて展示したものです。
画、陶磁器や工芸品、染織品、切手など、時代も地域も様々なものが、
お正月というつながりで集められた、見ていて楽しくなる展示です。

同時に新春イベントの期間内でもあり、
入り口から真生流家元による豪華な生け花が活けられていました(1.16まで)。


ケータイのお粗末な画像ですが、写真を撮ってきたので、様子をお伝えします。

本館入り口前、噴水のところに生け花。
「総合文化」と銘打つのですから、華道の紹介はとても自然だと思います。
装飾にもなりますので一石二鳥、常時展示しても良いくらいに思いましたが、
生け花の管理は費用も人手も大変ですから、無理でしょうね・・・。

110112tohaku01.jpg

入り口の右側壁面には垂れ幕。

110112tohaku02.jpg


本館入って正面階段の両脇と、踊り場のところにも生け花。
この踊り場の生け花は、巨大な箱型の入れ物(ほとんど小部屋)が壁面に埋め込まれた感じで、
その中に活けられているので通行の邪魔にはなりません。
こうなってはじめて、あら、ここの壁まさか壊したはずはないし、元はどうなっていたかと、
記憶がさっぱり抜け落ちていることに愕然。
帰宅して昔のカタログなど見て、黄銅色の扉があったことを思い出しました。

110112tohaku04.jpg


二階から見下ろすとこんな具合。
人がいなくなる瞬間を待つのが大変なくらい、結構な人出でした。
開始早々のあまり注目をあびていない特別展、くらいの混雑具合だった気がします。
(おかしな比喩で恐縮ですが想像して頂くにはこれしか思い浮かびませんでした)
「トーハク」と略称し、芸能人を使って「恋」とか「ブンカ」などの惹句を飛ばしたポスターで、
来館者増加を狙った思惑は、今までの閑散とした「平常展」を見慣れていた者からすれば、
大成功なのでは?と思えます。
目標がどのくらいであるのか、狙い通りに若者が増えたのかどうかまでは、
わかりませんが。

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全体的に展示室に大規模な変更は入ってはいませんでした。
工芸品の一画(正面入って一階右手、彫刻室(仏像室)の奥)だけはかなり変化していて、
彫刻室の隣の小部屋が漆工室になっていました。
ここが、思い切り室内を暗くし、ケースや照明に凝っていて、
瀟洒な雰囲気の中で漆工の細かな部分までよく見えるようになっていて良い感じです。
本阿弥光悦の「舟橋蒔絵硯箱」が中央に美しく置かれていました。
・・・これ、昔から磯部巻きに見えます、よくふくらんで美味しそうです。

次の金工・刀剣・陶磁器の室は、ケースが順路に従って蛇行する様に並べ替えられていたので、
思わず足を止めてじっくり見入ってしまうものが増えました。
東博は広いので、一部屋に入って左右の壁面と中央に展示品があったりすると、
どのルートを歩くとすべて見ることができるのか確かに少し戸惑いますから、
自然と網羅して歩けるこの配列は、良い変更だと思いました。
野々村仁清の「色絵月梅図茶壺」が印象的です。


展示室としての気づいた変化は以上が一番でしたが、
他に、壁面にわかりやすいパネルで技巧や歴史の説明が示されていたり、
キャプション(題箋)が一新されていたのが目をひきました。
特に、国宝・重文の表示が洒落たものになっていたのが印象的です。
(以前は普通に文字で印刷または判子、「国宝」のみ赤字で「重要文化財」は黒字ままだったかと・・・)
大変な労力だったでしょうね・・・収蔵品は11万点あるそうですから、
展示替えごとに順次作りかえるとしても気が遠くなります。

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以上、まだ「平常展」という言い方が捨てられませんが、
総合文化展の簡単なご報告と感想です。
お客さん、増えますように^^
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正倉院展 [美術館・博物館]

奈良国立博物館 東・西新館
「第62回 正倉院展」
会期:2010.10.23(土)~11.11(木)
訪ねた日:2010.11.1
書いた日:2010.11.7


ここに「正倉院展」と書くだけで、感極まってしまうほど、大好きな展覧会です。
奈良時代の聖武天皇の愛用品を、没後その奥さんであった光明皇后が、東大寺の大仏に献納したものを中心に、数々の貴重な宝物が、正倉という、東大寺の一画の倉に伝世しました。
今では保存のために近代的な設備の整った収蔵庫に移されていますが、1300年近い長い年月、木造の倉で守り伝えられてきた裏には、どれだけの人の努力と、大切に伝えなければという思いがあったことでしょう。
この宝物が、毎年、秋の文化の日をはさんだ前後約1週間だけ、曝涼(ばくりょう・虫干しのこと)のついでに約70点ずつ公開されて、今年で62回になります(今年の会期は20日間)。
私は昭和61年から、ほとんど通ってもう23回訪ねたことになりますが、宝物は9000点もあるそうなので、単純計算しても全部見るにはあと100年以上・・・息の長い趣味です。

さて、平城遷都1300年祭と光明皇后1250年御遠忌の重なった今年、正倉院展出陳の宝物は、予想外に骨太なものでした。
もっとこう、きらびやかな平螺鈿の鏡とか、赤や緑の鮮やかな撥鏤の製品とか、瑠璃の椀たちのように、耳目を集めやすいもの、または鳥毛立女屏風や漆胡瓶の様に教科書的に有名なものが出ているかなと、思っていたのです。
けれど実際は、宝物に如何に様々なものがあるかが通覧でき、写経生や工匠の生活が垣間見られ、また良弁、道鏡他歴史上有名な人の直筆署名も多いなど、奈良時代の空気といいますか、その頃の平城京の様子が自然に身に入ってくるような、とても好ましいものになっていました。


中でも白眉はやはり、螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)。
紫檀材で作られ、ヤコウガイを使った螺鈿細工で飾られた、5弦の琵琶です。
貝裏を使った装飾を木材にはめ込んだ細工は、今でもちょっと高級な家具屋さんの奥や、漆工芸品のお店にはよく置いてありますが、別物、まったくの別物と思ってください。
はじめてこれを見たのは、昭和56年、東博に来た正倉院展でしたが、一目するなりそのこれでもかという煌く美しさに魅了されてしまいました。
「目も綾な」という表現そのままに、どこを見ても眩しく輝いています。
金銀や宝石を使った装飾品も、高級になればなるほど輝きは素晴らしいものになりますが、あれは光を外へ反射するもの。
対してこの五弦琵琶の、ヤコウガイと玳瑁を使った螺鈿細工は、無限の諧調に変化する七色の光を、中へ中へと集め、自らを輝かせているもの。
だからその美しさは琵琶いっぱいに満ち満ちて溢れ出さんばかりでありながら、決してその均衡を崩すことなく、日本人の心に刻まれた美意識を永遠にくすぐり続けるのだと思います。
なお、古代の琵琶で五弦のものは、現存世界で唯一です。
奏でる音は会場内で流されていました。
音楽にはうとい私の耳ですが、優しくて深い、揺らぎや潤いのある音、のように思えました。



繡線鞋(ぬいのせんがい)、難しい名前ですが、女性用の布のくつです。
同様のものが2点出ていました。
いずれもあでやかな花鳥文錦が貼られ、つま先には花形の飾りのついた、可愛らしいもの。
一緒に連れていった小学校5年生の息子が、見るなり「歩きにくそう」と言いましたが、たしかに、ぺたんこで、携帯用スリッパの様に浅くて、すり足ででもない限り、すぐ脱げてしまいそうです。
つまり、これを履いていた女性は、駆け回ったりすることなく静かに立っていたのでしょうね。
光明皇后自身だった可能性も考慮され得るようですが、いずれにせよ高貴な女性のはず。
この靴に優しく守られて、白い足でそっと立っていただろうその身が朽ちて1300年、ただ靴だけが大切に遺るのを見れば、繰り返し書いていますが、生の切なさを感じないではいられません。
ちなみに、靴のヘリには、巾着袋の口の様に紐が回し通してあります。
これをしぼって大きさをあわせたのかなとか、あるいは脱げないように靴下などに止める仕組みだっのたかなとか、解説書には何も書いてありませんが、想像するのは楽しいことです。


鳥獣花背八角鏡(ちょうじゅうかはいのはっかくきょう)。
見るなり、でかい!と驚いてしまいました。
直径65センチに近い、宝庫中最大の鏡だそうです。
黒味を帯びた重厚な佇まいとおさえた装飾は、宝物の中でも異彩を放っていました。


浅縹布(あさはなだのぬの)
調布として上総国から届けられた反物を浅い青で染めたのへ、悠々たるむら雲が白で渦巻くように描かれたもの。
長さ13メートルほどある反物の、中央9メートルにわたっての描写だそうです。
展示はもちろん絵のある一部のみでしたが、縹色の美しさといい、自由でいながら不思議な均整のとれた雲といい、心に残ります。
両端には紐を通した穴が残っているそうなので、建物の長押などに長く吊るして荘厳したのかもしれません。


曝布彩絵半臂(ばくふさいえのはんぴ)
半臂は半そでの上着のことで、これは曝布という晒した麻布の前後の身頃に、花鳥文や獅子などの色絵を施した、宝物中でも珍しいもの。
袖、襟、衽に錦を、腰紐には染めた綾を使い、彩絵も当時は金まで使った極彩色だったそうで、手の込んだ意匠から当時の華やかさがしのばれます。
用途不明ながら華やかさから舞楽の装束と考えられるそうですが、威勢の良い貴公子が最先端のお洒落を見せびらかして歩いていたのかも、などと考えるのも楽しいです。


銀壷(ぎんこ)
これは先日ひとつ前のエントリー「東大寺大仏-天平の至宝(その2)」で、「息のつまるほど手の込んだ毛彫り細工の素晴らしい銀壷」と書いたものと対をなすもの。
正倉院展のものが甲で、東博に来ているのが乙、年記から称徳天皇が東大寺に行幸した際献納したものと推測されています。
一番太い部分で直径60センチを越す大きな壷ですが、全面に魚々子(ななこ)といって微細な点てんを敷き詰めるように打ち出した中に、狩猟騎馬人物と動植物等を線彫りで描き出してあります。
躍動感ある狩猟文も素晴らしいですが、この魚々子が微妙な波動で広がって、見ていて非常に心地良いのです。
実は、この壷、二つあったとは知りませんでした・・・並んで展示されていたことなどなかったような・・・と思い、手元にあった「正倉院展六十回のあゆみ」というカタログをくってみましたら、甲のほうは平成4年に見ていて、その前も昭和の頃に出陳されていますが、乙のほうに出陳の記録が見当たりませんでした。
もしかしたら、東博が初お披露目なのでしょうか・・・正倉院宝物は他でも時々出ていますので断言は出来ませんけれど。
実はカタログの甲の図版に訂正が入っていて、逆版でもあったのかしらと見たら、東博に来ている乙のほうの写真になっていました(カタログで比較)。
気づいた時の関係者さんたちの焦りは如何だったかと、お察しします。


色麻紙(いろまし)
絵紙(えがみ)
吹絵紙(ふきえがみ)
どれも、未使用の、紙です。

色麻紙は、五色の紙を5枚ずつ4セット、計100枚を束にして軸木に巻きつけたもの、が基本です。
お徳用折り紙の束をはしから丸めた時のように、巻き終わりは色が斜めに綺麗に広がります。
これが1000年以上前の紙かしら!と思うほど、保存が良く、手が切れそうに鋭いままで、非常に綺麗です。
むしろ、1000年以上前のものだからこそ、美しく遺っているのですね、ご存知のように、現在の紙は100年もすればボロボロに変色・劣化してしまいますから。

絵紙は、厚手の紙に装飾としての模様を描き込んだもの。
一見すると吹流しのように褐色のただくるくるした無作為の模様に覆われているだけのように見えますが、これは流れる雲の様子と、その雲が時に麒麟や鳳凰に変化して行く様子を描いたもの。
雲間にさりげなく飛ぶ鳥の姿もあります。
本来、写経なり手紙なり、何かの用途のための紙で、絵はその下地装飾として描かれたにすぎないのでしょうけれど、結局、何に使われることなく今に伝わりました。
ほぼ同様の紙は77枚伝存しているそうです。
一人の人が描いたものか、時期はどれくらいかけたものか、そういうことは何もわかりませんが、使われただろう分は消滅し、使われなかったものだけが遺って、この人の手の跡を伝えているというのも、思えば切ないことです。

吹絵紙も、加飾された未使用の紙、出陳は三種類。
切り抜いた型紙を置いた上から染料を吹きつける、いわゆるステンシル技法で装飾されています。
山岳文や鳥、蝶、鹿の小さな模様が、柔らかい吹き絵でほぼ左右対称に描かれているのですが、これが可愛いのです。
帰宅してから解説文を読んで気づきましたが、1人の人物が頭に乗せた棒の上でもう一人が逆立ちしているという、軽業師の図様もありました。
紙にこんな装飾をしようと思った当時の人は、仕事を楽しんでいたのでしょうか。
それとも、何か重々しいご下命を受けて決められた模様を使わせられ、失敗は許されぬ重圧の中での作業、という感じだったのでしょうか。
可愛らしい図様と吹き絵の柔らかさを見ていると、今度はこんなの作ってみたよ!などと楽しそうにお喋りしながら作業している明るい姿が思い浮かんでしまうのですが、さて、どうだったのでしょうね・・・。


他に、文書類で、種々薬帳に、仲麻呂、永手、福信、角足、戸主の署名が並び、良弁や道鏡の署名のある牒(諸司に提出する公式文書の一種)を見れば、一生懸命生きて、やがて運命とともに滅んでいったこの人たちが、たしかに存在した実感に、胸が熱くなるのです。


どの展覧会も、書き出せば無意味に長くなってしまうのですが、正倉院展は特に、あらぬ想像まで膨らむため、このまま書き続けては止まらなくなるので、特に興味をひかれた・・・というよりは、是非とも見て頂きたい、と言ったほうが良い数点でやめておきます。



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東大寺大仏-天平の至宝(その2) [美術館・博物館]

先日訪ねた東博の東大寺展、展示替えで正倉院宝物が来ているので、
再度行ってきました。
展覧会全体のことは、前回のエントリーを見てくださいね。

さて、展示番号にしてわずか14点の入れ替えですが、
来歴ともども、しみじみと心に迫ってくる品々です。


まず、大仏開眼会に実際使われた、筆と墨、
そしてその筆に長く結ばれて、参列する多くの人々の手に握られたという、
縹色(はなだいろ)の縷(る)。
天平勝宝4年(752)4月9日、実際に菩提僊那(ぼだいせんな)という渡来僧が、
この筆に墨をつけて、大仏に眼を描き入れたと考えられているものです。

縹縷は、薄い青色の絹製の紐ですが、むしろ縄に近く思えます。
今はぐるぐる巻きに束ねられていますが、のばすと200メートル近いそう。
聖武天皇、光明皇后以下、どんな人々が、どんな思いで、
この紐に結縁し、菩提僊那の描く瞳に見入り、無事の開眼にほっとしたことか。
そしてこの、きっと百戦錬磨だったでしょう渡来僧も、
さすがに小さいとはいえひとつの国家の百官が集い、見守る中、
巨大な大仏の目玉を描き入れるというのは、毛のもさもさに生えた心臓だったとしても、
震えるものがなかったとは思えません。

そんな躍動する時代に生きた人々の記憶をたしかに留めたまま、
今静かに、枯れ果てた風情で筆と墨と紐だけが、テンと置かれて目の前にある。
泣かずに見ることなどできません。

筆と墨はまた、文治元年(1185)、つまり年表でいう鎌倉時代の始まる直前の、
再興大仏の開眼会でも使用されたそうです。
知識としての興味もさることながら、
受け継がれてきた思いの強さに、またしても涙なのです。


次にあるのは、聖武天皇遺愛の品として有名な、
﨟纈屏風(ろうけちのびょうぶ) 鸚烏武・象木(おうむ・ぞうき)
蝋を利用して布に模様を染め出したもので、
屏風といっても、今は手ぬぐいみたいに一枚ずつ、残っています。
1枚が鸚鵡、1枚が象を主題とした風景となっていますが、
昨今、鸚鵡ではなく別の鳥との調査結果が出たようです。
いずれにせよ、樹上におサルがいたり、騎馬の狩猟民がいたりと、
現在ですら、異国情緒を濃厚に感じる図象。
海外に行けるわけでなし、動物園があるでなし、
テレビもネットも想像すらできなかった生活で、
この、今は褐色に見えるただの布が、どれだけ人の心を慰めたかと、
遠く思いを馳せれば不思議な懐かしさをすら感じるのです。


それから、2種類の薬草と、それぞれの薬草を入れてあった保存袋、
そしてその薬草を使うための許可証のようなものと砂金の使用許可証、
桂心、桂心袋、人参、人参袋、沙金桂心請文。

桂心はケイヒのこと、人参は朝鮮人参のこと、現在でも漢方などでよく聞きます。
品物は要するに、感想した根っこと木切れ。
それで、以前なら、薬、へー。・・・でお終いだったのですが、
この春、奈良博の西山厚先生の講演を拝聴し、
これらの薬草が、聖武天皇亡きあと、つまり、
これを使って治してあげたかった夫を亡くした後、
光明皇后が、人々のために使ってほしいと、大仏に献納したものだと知って以来、
ただの根っこと木切れには見えない、何か愛情のこもった品物に見えてきました。

しかも桂心請文は、実際、施薬院からの、桂心を使い尽くして購入先でも在庫切れなので、
是非分けて欲しい、という内容の請文です(正確な文言は別です、私の意訳)。
これに対して、でかい文字で「宜」、つまり、よろしい、という、
許可の一字が書かれているのですが、この字が、
光明皇后か、その娘孝謙天皇か、次の淳仁天皇のいずれかだろうということです。
見れば見るほど、知れば知るほど、心にしみてきます。


それから、息のつまるほど手の込んだ毛彫り細工の素晴らしい銀壷、
斑模様の入ったサイの角でできた、花びらの様にあでやかで大きな、組み立て式の如意、
大仏開眼供養時の荘厳に使われたと思われる、金銅製の、雲と鳳凰の形の飾り板。
いずれも、現在普通には目にしない大きさ、装飾、品物なので、
はじめて見る人には不思議な迫力をもつのではないでしょうか。
できればもっと間近で、もっとじっくり、見て見たいのですが詮無い夢です。


最後に、麻布菩薩(まふぼさつ)。
今の正式名称は、明治時代につけられた墨画仏像(すみえのぶつぞう)というそうですが、
まふぼさつ、というなめらかな発音が気にいっています。
2枚の白い麻布を正方形に縫い合わせ、大風呂敷くらいの大きさにし、
そこに墨だけでサラサラと、雲に座り天衣をひるがえして飛来する菩薩像を描いたもの。

何に使われたのかわからないそうですが、
墨継ぎにも頓着しないおおらかな描線、
実は描き間違えたと思う程の描写の狂いがあるのに見事な安定感は、
完成を目標とした作品ではなくて、職人さんが手遊びに試した落書きなのかもしれないと、
いつも私は思います。

春ならば、優しい桜の風、
夏ならば蝉の声と水しぶき、
秋ならば深閑と降り積もる紅葉のしめやかさ、
冬ならば雪の止んだ朝の輝く陽光。

墨の仏画なのにそんな風景を感じさせてくれるのは、
日本人の心の中に畳まれた共通の何か懐かしい風情を、
この絵がもっているからなのかもしれません。


とても勝手に、そしてとてもざっと感想を書きました。
正倉院宝物が展示されているのは期間中でも11/21までですので、
いらっしゃる方はどうぞお早めに。


そして、いつも書いていますが、平成館から本館への通路の右側展示室で、
今は「東京国立博物館所蔵 正倉院の染物」をやっています。
明治初期に正倉院から、研究・保存のために各地の博物館、
特に帝室博物館であった東博に頒布された染織品がかなりの数あるそうで、
その一部が展示されています。
何故かいつも見ている方がほとんどない小部屋なのですが、
今回も、価値としては目が飛び出るほどすごい展示ですので、
ぜひぜひ立ち寄ってください。
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東大寺大仏-天平の至宝 [美術館・博物館]

東京国立博物館 平成館
「特別展 光明皇后1250年御遠忌記念 東大寺大仏 天平の至宝」
会期:2010.10.8(金)~12.12(日)
訪ねた日:2010.10.15
書いた日:2010.10.20
★11.2(火)~11.21(日)まで、十数点が正倉院宝物と展示差し替えになります(その後はまた元の展示)

「東大寺大仏」とあれば展示品に何が来ていようといまいと、
行くに決まっています。
それで、まったく調べもせずにのこのこ出向いたのですが、
道中、はて・・・いったい何が来ているのかしらん・・・とちょっと疑問でした。

行ってびっくり!
メインとなる展示のひとつに、

八角燈籠

が来ているではありませんか。
東大寺大仏殿前に佇む、あの、音声菩薩の透かし彫りが美しい大きな燈籠です。
遷都1300年祭で奈良を訪ねる方の多い時に、持って来ちゃっていいんですかー!
という悲鳴が、少し前に三井記念美術館で開催された「奈良の古寺と仏像」展の時と同じように、
私の頭の中で谺しました。
今、大仏殿前にはレプリカが立っているのでしょうか、
それとも、すっからかんと何も置かれていないのでしょうか。

でも、いつもおおらかな陽の下、5メートル近い高さのある燈籠は、
その繊細な影の部分までは良く見えなかったものですが、
ここでは素晴らしくはっきりと見ることができたので、
素直に感謝致します。

特に、音声菩薩の透かし彫りのあるもののうち、東南の一枚、
昭和37年の盗難後、翌日見つかった時には周囲が破損してしまっていたため、
以来別途保管されてきたものが、今回一緒に展示されていたのが嬉しかったです。
目の高さでの展示でしたので、じっくりと見れば、
穏やかなお顔、波打って翻る天衣、優雅に体に絡みつく衣・・・
何もかも愛しくなります。
横から見れば本当にわずかな厚みしかない銅版に、
よくぞこれ程の馥郁たる絢爛さを与えられたものです。



さて、前後しますが会場のこと。
入ってすぐの部屋は出土品の陳列。
東大寺やその前身寺院から発掘された、瓦が並びます。
直前に訪ねた埼玉県立歴史と民俗の博物館でたくさん見てきた、
関東の初期寺院出土の古瓦の記憶と比較して、
一見して細工の繊細さが格段に上だと感じられます、こんなに違うのか、と思うほど。
中央と地方の差、もあると思いますが、これは時代の差でしょうか。
関東の初期寺院は飛鳥時代のものが多かったですから。


古代の軒丸瓦には蓮弁(蓮の花)模様が使われることが一般ですが、
時代が下るにつれ、花びらが1枚ずつのシンプルなものから、
二重になったり二重の中が更に2つにわかれていたりと、複雑になっていくそうです。
これも調べると楽しそうなのですが私は詳しくなくて・・・
それでも、見れば一目瞭然の差がありました。

余談ですが、古瓦は出土品ゆえに破損・汚損があって、
そのままではなかなか興味のひかれるものではありませんが、
拓本にとると、素晴らしく味が出ると思います。



さてその部屋を出ると「西大門勅額」が単品で出迎えてくれます。
ここからが現東大寺ですよという演出でしょうか。
縦3メートル近い木製の額に「金光明四天王護国之寺」と大きく刻まれた、
その文字は聖武天皇の筆と伝えられています。
過去何度も勿論見ているはずなのですが、
その丁寧で優しい文字にこれほど感じ入ったのは、今回がはじめてです。


このあたりから、去年の阿修羅展のように、会場全体に細工が施されてきます。
朱や丹というよりもっと目に鮮やかな赤と緑で柱や欄干が作られ、
天上からは五色の垂幡がいくつか下がっています。
展示品まわりは、こくと温かみのある独特の黒で印象的に強調されています。
垂幡などは特に、部屋に入るときに気づかなければ、
あとは見上げない限り目に入らないかもしれませんし、
今時こういう演出は珍しいものでもなく、みなさん気にせず展示品だけを見ていたようですが、
きっと、気づかないうちに、この演出が、古代の、聖武天皇・光明皇后の時代の、
何かの魂を呼び出してくれているのではないかしらと・・・
様々考えてご苦労なさっただろう主催の方々のお気持ちを思いながら、
しばし、その赤い色の中で立ち止まってくるくると周囲を見渡しておりました。


しかし、そんな演出とLEDライトの素晴らしさ故か、
居並ぶ伎楽面の数々が、テラテラと妖しい艶を出して妙に怖かったのは、
ちょっと自分でも予想外でした(笑)。


この部屋に、試みの大仏と呼ばれる小さな「伝弥勒仏坐像」
水盤に立った大きめの誕生仏として有名な「誕生釈迦仏立像及び灌仏盤」
鎮壇具などがあるのですが、壁面に埋め込まれたモニターで、
展示物の細部の映像を静かに流しているので、
その概要と、見るべき細部が自然とわかり、助かります。
灌仏盤の周囲の細かい線刻や、鎮壇具の小壷に施された息を呑むほど濃密な装飾などは、
たんぽぽの綿毛のように柔らかなライトやガラスケース越しにはそのままではしかと判別できず、
モニターで明解に見てから実物を見てやっと、ほのかに我が目に像を結ぶのです。
LED照明などともに、近年の展示で有難いことのひとつです。


続いて良弁僧正像と、僧形八幡神坐像にはさまれて、
最初に書いた八角燈籠は、この部屋にありました。


コーナーの最後には、経典がいくつか。
書も経もわからないので、普段ならさっと見てお終いですが、
五月一日経と呼ばれる、光明皇后御願経の一部と、
大聖武と呼ばれる、聖武天皇宸筆とされる経典が出ていたので、
心ひかれてゆっくり見てきました。

五月一日経とは、光明皇后が亡父母(藤原不比等、県犬養三千代)の追善供養と、
夫聖武天皇の御世の安泰と、
【自らは迷い苦しむ衆生の救済と法灯の無窮を誓って発願書写せしめた】
ものです(【 】内は文化庁の文化遺産オンラインより抜粋)
願文の末尾に「天平十二年五月一日記」とあるのでこう呼ばれ、
15年前後かけて7000巻ほど写経されたそうです。
現存するのは1000巻ほど。
光明皇后の想いを偲ぶ縁となる逸品です。
実際写経したのは写経所の写経生ですが、
書いた人の名前がわかっているものがあったり、
朱点や張り紙で訂正が入っているものがあったりと、
ちゃんと、その時代に生きていた人の呼気が、目に耳に感じられる気がするのです。

大聖武は「賢愚経」という、どうやら賢い人と愚かな人の寓話をまとめたものだそうです。
(なんだか耳が痛いです・・・)
この時代の写経には珍しい雄渾な筆跡のため、古くから聖武天皇宸筆とされていますが、
実際は唐人または渡来系写経生の筆だそうです。
波に乗ったような粘りのある豊かな筆致はたしかに宸筆であったらいいなと思わせます。

ところで、平成館から本館への通路の途中に、
いつも予想外に素晴らしい企画展をしていて嬉しい小部屋がありますが、
今回ここでは朝鮮・中国と日本の料紙、というタイトルでしたか、料紙の展示が出ていました。
ここに、東博所蔵の「大聖武」がこっそり並んでいました。
その中の「日」という文字に、
「墨でなぞって肉太な独特の書体に整えようとした痕跡」
があると言って引き伸ばした写真も展示されていまして、
見ればたしかに、私たちが習字で咎められる「なぞり書き」がされています。
こんなお茶目なことは、プロの写経生でなく、
そういう意味では自由の利く天皇の仕業のほうが自然では?
と考えた人が、私のほかにも大昔にいたのかなと思って、
見知らぬ遠い誰かさんに微笑んでご挨拶のひとつもしたくなりました。




さて、その次、後半の最初の部屋が、驚きました。
「大仏の世界」というタイトルで、バーチャル・リアリティ映像の上映会場になっていたのです。
普通、映像コーナーは順路から離れていたり、会場を出てからだったりと、
見たい人だけ見る感じですが、ここでは順路に組み込まれていて、
物理的には素通りも勿論可能ですが、見ないで進むわけにはいかない気持ちにさせます。
たしか上映時間12分と書いてあった気がしますが、会期後半混雑してきたら大丈夫かなと、
ちょっとそんなことを思いながら椅子に腰掛けました。

この映像が、大仏創建当時のものが残る蓮台の花弁に遺された、
あの三千大千世界の線刻の解説を中心に、
バーチャル・リアリティを使ってあらゆる角度から大仏を眺めわたし、
創建当初の大仏殿の予想図を眼前に提示する、というものだったのですが、
最初、宇宙の映像が、前のスクリーンをはみ出して天上いっぱいにまで流れたところから、
なんだか感極まってしまった私。
聖武天皇、光明皇后の目指したもの、大仏が体現するもののナレーションとともに、
小さな線刻の部分、ひとつひとつが、天上から降るように積もって、
やがて三千大千世界に集積していく演出に、すっかり涙ポロポロ・・・。
部屋が暗いのを幸い、涙の粒もそのままで最後まで見入っていましたが、
終了とともにぱっと明るくなったので当惑しました(笑)。
大仏のバーチャルリアリティー映像見て滂沱と涙する人も少ない気が致します・・・。



後半の部屋で印象的なのは、

「二月堂本尊光背」
絶対秘仏の二月堂本尊、十一面観音立像のもので、身光部のみです。
(頭光部もあるそうですが、来ていませんでした)
破片を台板に貼り付けた、原型も危ぶまれる破損度ですが、
細部まで非常に繊細でかつ安定した線刻は、形がどれほど壊れても、
変わらず古代の高い精神の香気を伝えて怖じることがありません。


「不空羂索観音菩薩立像光背」
三月堂本尊、不空羂索観音立像のものです。
これはよほど独特の形状なのでしょうか、何の予備知識もなかったのに、
この部屋に入って、目のはしに写った途端に、
あああ、不空羂索観音だ!と、声をあげそうでした。
無意識のうちに刷り込まれた形の力なのかもしれません。
御身の抜け出した光背だけなのに、自然と手をあわせたくなるものがありました。


それから聖武天皇念持仏という、小金銅仏「菩薩半跏像」
夏に三井記念美術館に来ていましたから、そのまま都内においでだったのでしょうか、
それとも一旦お寺へ戻られたのか。
小さな像が続けて二度も私の眼前に現れてくれて・・・
ガラスケースさえなければ、そっと両手で包んで、
古の人の心に触れてみたい気持ちでした。


最後の部屋は東大寺の再興に関する展示で、
平安から鎌倉に時代が変わる頃復興に奔走した「重源上人坐像」
江戸時代に尽力した「公慶上人坐像」
重源と関係の深かったという快慶作の阿弥陀、地蔵の2像などがありましたが、
最後の最後、出口の右側にテンと座っている像を見て、
口があんぐり開いてしまいました。

「五劫思惟阿弥陀如来坐像」(奈良・五劫院)

間違いありません、巨大アフロに下ぶくれのお顔、
三角おにぎりのおきあがりこぼしの様な体にはぶ厚く衣がまとっていて、
たしかに、御手が隠れています。
今年、遷都1300年祭の特別開扉もあったにも関わらず、
日程的にどうしても奈良に行くことができず、
断腸の思いで見ることを断念していた、あの、五劫院の阿弥陀像です。
同時代のもう一体、東大寺の、御手を合掌した五劫思惟阿弥陀像は、
過去何度か機会があって見ていて、夏の三井記念美術館でも再会していたのに、
よく似ているというこちらの像には一度も会えないでいた、
その憧れの像が、目の前に・・・。

嬉しくて何ものかに感謝すると同時に、
こんなに簡単に夢が叶っていいのかしらと、罰でも当たりそうで当惑しました。



今回、展示品は50点ちょっとでしたので、
ゆっくり見てもさして疲れない、私にはちょうど良い感じでした。
「東大寺大仏」というタイトルなのに、直接大仏に関するものは、
バーチャルリアリティーの映像だけ・・・と言う方もいらっしゃるかもしれません。
(会場を出た飲食コーナーに、大仏の手の実物大模型が置いてありましたが・・・)

でも、奈良の大仏って、物体としての仏像だけでなく、
遠い昔に発願した聖武天皇・光明皇后が願ったこと、
制作に携わった人々や、
その後もでっかいなー!と驚きながら大切にしてきた民草の思い、
この像の下で修行してきた人たちの誓い、
それから物見遊山ででかけたたくさんの普通の人々の気持ち、
そういうものを全て受け止めて包みこんで、そこにある、
そういうことこそ「奈良の大仏」なのではないかなあと思います。
ならば総ての展示品は「大仏」であって良いのだなと、
ちょっと意味不明ですがそんなことを思いながら会場を出ました。



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埼玉の古代寺院 [美術館・博物館]

埼玉県立歴史と民俗の博物館
「仏教伝来 埼玉の古代寺院」
会期:2010.10.9(土)~11.14(日)
訪ねた日:2010.10.13
書いた日:2010.10.14


昨日の朝、新聞を眺めていたら、ふと目に止まりました、
深大寺の銅造釈迦如来倚像の写真。
お?と記事を読んでびっくり!
地元の博物館におでまし中ではありませんか。
ちっとも知りませんでした!
私が行かないで誰が行く!!!というくらいの意気込みで、
早速身支度をして出かけてきました。

JR大宮駅から東武野田線各停で2駅、大宮公園駅で降り、
住宅街を5分ほど歩くと大宮公園内のこの博物館につきます。
が、博物館手前の道に信号機がなく、
すぐ近くの踏み切りを渡って行き来する車が途切れないため、
渡るのに妙な苦労・・・道がこんなに渡れなかったのって、
信号などの完備した最近ではとんとなかったことで、なんだか新鮮でした(笑)。


さて、その横断待ちの間に撮った博物館の写真が、これ。

101013rekihaku01.jpg

特別展の横断幕がかかっています。
最近都内の綺麗なところに行ってばかりだったし、
同じ公立でも、千葉も、以前行った平塚もとっても綺麗だったので、ちょっと不安。
でも、これは裏側でした。
正面はこんな感じ。

101013rekihaku03.jpg

・・・うーん・・・ぱっとしません?(笑)。
でも、前庭には弥生式(手前)と縄文式(奥)の住居が復原されていて、
公園内の森深い感じが素敵。

101013rekihaku02.jpg


入り口はこんな感じ。

101013rekihaku04.jpg

ちょっと、今改修中の都美の昔の感じに似ています。
中に入っても印象に近いものがありました。


さて、特別展「埼玉の古代寺院」。
新聞に出てしまったので混んでいるかも・・・とはあまり心配しなかったのですが、
心配するも何も、展示スペースにいるお客さんは、私のほかに初老の男性ひとりきり。
・・・
すいているのはとってもとっても嬉しいのですが、こ、これはいくらなんでも・・・。
各コーナーにいる係の方が、私たちの足音に驚いて飛びのくのがちょっと切なかったです。
お昼近くにはもう少し増えましたが、それでも、一度に10人くらいでしたでしょうか。


この博物館、作りも展示も、昔ながら。
流行のLEDライトの美麗な照明や、
「ミュージアム」と呼ぶのが相応しい洒落た展示、一切なし。
ガランと大きなガラスケースに、淡々と展示物が並びます。
もちろん蛍光灯と白熱灯の照明が、わずかに波うつガラスにこれでもかと反射しまくって、
展示物を見ているのか、背後の風景を見ているのか、自分の影なのかわからない状態。

でも、そこが良い!
そこがとても良いのです。
抜けた天上がとても高く、小細工なしの壁や床は今ではむしろ、
重厚にすら感じます。
独特の匂いのする「博物館」という場所に安逸を感じる方、
綺麗になった「ミュージアム」たちについて行けない方には、
ぜひぜひ、おすすめです。


そんな妙な感動で見てまわった展示。
埼玉県内のみならず「武蔵国」各地のお寺、寺院址の発掘成果などから、
関東での仏教の広がりを物理的にも実証していくという、
とても内容のあるものでした。
勉強している方には見逃せないものだと思います。

いきおい展示品は古瓦などの出土品が多く、
もともと深大寺像にひかれて出かけてきた私にはうまくここでご紹介もできないのが残念です。


その深大寺像、部屋の隅のとりわけ薄暗い角に、
普通は立像を納めるのによさそうな大きな展示ケースを斜めに設置し、
その中に座っていました。

ケース床面が低いですから、83センチほどのお姿は完全に私の目の下。
その時のお顔はたいそう飄々としていて、我関せずの様相です。
なんだか、含み笑いで無視されているような、
気づいてはいるのに、こちらを見てはくれないようなもどかしさ。

2009年夏の終りに深大寺を訪ねた時は、陽の影でどうしてもよく見えなかったお顔ですが、
他に見る方もいないのを幸い、ケースに張り付いて見ていれば、
鼻梁から眉へ跳ね上がる端正な線も、二重に見える優しい目の線も、
ぽっちりと柔らかな小さな口唇の線も、すっきりとまとまった頭部の鏨の線も、
何もかもがはっきりと、手にとるように良く見えます。

香薬師像と似ていると聞きますが、写真で見る限りは、
香薬師像よりもっと端正で研ぎ澄まされた印象です。

(香薬師=奈良の新薬師寺に安置されていて昭和18年に盗難にあって以来所在不明の白鳳仏。今年1年レプリカが公開展示されているそうです)


でも、これでは、私の気持ちがおさまりませんので、
これまた人のいないのを幸い、ガラスケースの前で、ゆっくりと膝をついてしゃがみ、
見上げる様に拝観してみました。

と!

すーっと視点が落ちるにつれ、そのお顔は見る見る上へと振り仰がれ、
いずれ私の膝が地につき動きが止まる頃には、
先程上から目線で拝見していた時とは、まったく別の表情が出現しました。

何でしょうかこの、高邁な華やぎは。
香りたつ気高さに陽の光そのものの様な清清しい明るさは。

それから長い胴に目をすべらせ、
二指の折れて痛々しい施無畏の右手、
膝にぽとんと落とされた様な与願の左手を次々見ていく頃には、
何とも言われぬものに心触れて、
また私は涙を溢れさせる他ありませんでした。


その後も何度も戻っては膝をついてきたので、
係の方をはらはらさせたかもしれませんね、すみません。


さて、とても有意義だったこと。
関東には、白鳳仏が3体伝存しているそうで、
そのひとつが勿論深大寺像ですが、
もうひとつが、東京、国分寺市の武蔵国分寺址から出土した、

銅造 観音菩薩立像

です。
これのレプリカが展示されていました。
像高28センチほどの、いわゆる小金銅仏。
東博の法隆寺国宝館に並んでいるのと似寄りの作風のものです。
出土品のためかお顔など磨耗が勝っていますが、
小さくても品格のあるのは、他の小金銅仏と同じでした。


もうひとつが、千葉、印旛郡にある龍角寺にある、

銅造薬師如来坐像 の頭部

こちらは写真で掲示されていました。
解説には、興福寺の山田寺仏頭に通じる作風とありましたが、
少し肉厚の顎のあたりは、もっと似た像があった気にさせます。
唐招提寺あたりで見たことがあるような・・・。

この龍角寺、行ってみたいと調べたら、かなり行き難そうだったので、
写真でだけでも拝観できて、非常に満足しました。


以上、関東の白鳳仏三点に関することですっかり充実したのですが、
もう一点、素晴らしいものが出ていました。
平家納経、久能寺経と並んで日本三大装飾経に数えられる、

国宝 慈光寺経
(慈光寺蔵 法華経一品経阿弥陀経般若心経 三十三巻)

こんな、人もいない展示室で見るものとは思われない、
さんざめく装飾と素直な文字の美しい、素晴らしいものでした。



深大寺像の余談です。
ここの解説パネルの関東の白鳳仏の説明で、
武蔵国分寺址出土の像が「釈迦如来」と書かれてしまっていたので、
(おそらく写植の方が深大寺像につられてしまったもの)
係の方にちょこっとお知らせしたら、学芸員の方が出てきてくれました。
私よりお若い小柄な女性だったので、勇気を出してちょっとお話を(笑)。

深大寺では、ご住職が展示の趣旨に賛同してとても快く貸与してくださり、
普段お寺では拝むことのできない、左右や背後も、見えるようにしてほしい、
とおっしゃられたそうです。

特に、大正時代の旧国宝指定に際して吉田包春に依頼した春日厨子や台座のうち、
台座が、向かって左側からよく見えます。
よくと言っても老眼開始!の私の目はうろうろしてしまいましたが、
木製で、でしゃばることなく繊細に施された漆の装飾の美しいものでした。

会期中、展示替えもあるそうですが、
深大寺像は通しで展示だそうですので、
ぜひ、見に行ってみてください。



なお、去年深大寺を訪ねたときのことは、夢紫五色の掲示板に簡単に書いてあります。

夢紫五色 掲示板
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田中一村 新たなる全貌 [美術館・博物館]

千葉市美術館
「田中一村 新たなる全貌」
会期:2010.8.21(土)~9.26(日)
訪ねた日:2010.9.14
書いた日:2010.9.20

巡回:鹿児島市立美術館・2010.10.5(火)~11.7(日)
田中一村記念美術館・2010.11.14(日)~12.14(火)





田中一村 たなかいっそん
明治41年(1908)栃木県の木彫家のもとに生まれ、
幼時より特定の師匠をもたないまま、天賦の画才を発揮。
若くして人気南画家となり、東京美術学校(現・東京藝大)に入学するも2ヶ月で退学。
その後日本画に転向、中央画壇に認められなかったため見切りをつけ、
昭和33年(1958)50歳で単身、奄美大島へ移住。
以後、染色工として働きながら、独自の画境を極めた絵を描き続け、
一作品も世に発表することのないまま、69歳で孤独死。

まったく無名のまま終わった、この孤高・異端の画家が、一躍大人気となったのは、
没後の昭和54年、まず南日本新聞が取り上げ、
続いて昭和59年、NHKが日曜美術館で放映して以後のことだそうです。
しかし、その人気に、研究が追いついておらず、
いわゆる「ブーム」として終わってしまうことを懸念した関係美術館が、
一村生誕100年となる平成20年を機に、
共同して地道な調査研究に努めた成果が、今回の、
「新たなる全貌」というサブタイトルに込められているそうです。
数え年8歳の頃からの作品をはじめとして、
新発見を含む250点もの作品を年代順に網羅した素晴らしい展示でした。


まず、幼少の頃の作品。
数え8歳で描いた蛍や松の短冊、数え9歳の白梅、同11歳の蛤の色紙。
この4点だけ見ても、私の様な素人には、
老成した大画家が知人に気軽に描いて贈った、というような、
上手いだけでなく、情趣の備わった余裕のある筆運びに見えます。
特に蛤の図は「わびさびの境地まで表したかのような作品」とカタログにも書かれています。
10歳でわびさびとは・・・昔の人は皆早くから大成していた様ですが、
それでも、先の人生が安穏であるはずもない天の才を感じます。


それから二十歳すぎる頃までは、当時政財界で流行していた、
上海派風の南画を描き、人気だったそうです。
墨跡の力強く、挿す色もはっきりとした蘭だの菊だの梅だのの南画は、
たしかに、これぞ政治家の座る背後の壁に飾れば次期も当選確実!
と思えるような豪快な自信と精気に満ちています。
・・・いや、そのように見える、ということです。
奄美大島時代の作品に魅せられた人にとっては、この時代の画風は、
あまりに違いすぎて同じ人のものとは思えず面食らうことでしょう。

でも、赤貧・異端・孤高ということで人気のこの画家に、
大人気で描けば売れる時代があったことを知るのは、
何を捨てて何を求めていったのか、想像する伝にはなると思うのです。

東京美術学校の2ヶ月での退学は、
大正15年(1926)のことですが、
正確な理由は特定されていません。
父親や自身の病気や金銭的なことが取りざたされています。
その少し後頃までが、南画家としてのピーク。
時代が中国文化への憧憬を薄れさせ、南画の需要も低減、
同時に画風の模索が始まったようです。

昭和10年代にかけての作として今回紹介された、
「秋色」
は、豊かな色彩がリズミカルに絡み合う日本画で、
あの豪快な南画を描いていた筆が、
どうしてこう心を癒す優しい軽さを持つようになったのか、
不思議なくらいです。


昭和13年(1938)、千葉に移り住み、
地元の人に支えられながら、自給自足にも近い生活の中、
独学で画風の試行錯誤を繰り返しながら過ごします。
終戦をはさんで昭和33年(1958)まで続くこの時代の作品は、
水墨を主とした山水画から伝統的な花鳥画にならったものまで多種多様。

中でも特に、お世話になったまわりの人へお礼として贈ったりしたらしい、
千葉の在所の田園風景の数々は、とても温かな郷愁に彩られ、
何の変哲も無い風景なのに、心ひかれます。
千葉を描く最後の絵だと本人が言ったという「暮色」は、
薄く色づく夕空に、墨だけで描かれた木立が、
涙の様に溶け出していて、豊かな余情がなんともいえません。

たくさんあるこの時代の千葉近郊の絵は、どれも知った人が見れば、
道筋ひとつまで正確に思い出せる類のもので、
点景としてただ添えられただけの様に見える小さな人物像も、
近所の○○さんだというように、すぐわかる特徴をもって描かれているのだそうです。
画家のお人柄がしのばれます。

その優しかっただろうことは、若くして亡くなった隣人の息子さんを、
遺された小さく傷んだ写真をもとに、鉛筆で大きく引き伸ばして模写した肖像画からも、
よく伝わってきます。
本当に写真を引き伸ばしたかの様な達人技だけでなく、
その絵からはぬくもりが溢れ出しているようなのです。


この千葉時代に、一村と改名し、公募展にも出品。
いくつかをのぞいて落選が続いたため、見切りをつけ、
奄美大島に移住することになります。

何故、奄美大島だったのか。
直前に九州・四国などへ旅行はしていますが、
では何故奄美大島だったのか。
ご本人の言葉は何も残っていないそうです。

ただ、千葉時代を通して、一村を「100年後に評価される画家」と信じて、
支援し続けてくれた親族他があり、
また、同じ気持ちで独身を貫いて一村を支えた、姉上があったことが、
その理由ではないかと、カタログでは推測されています。
つまり、中央での落選が続き、それらの人々の期待に添えないという、
深い落胆からの逃避。

当時、米国から返還されて5年、日本最南端であり、
異文化に近い環境だった奄美大島は、誰も追ってこれない逃げ場所として、
たしかに最適だったのかもしれません。
それが真実かどうかは永遠にわかりませんが。


そしてこの、奄美大島での作品が、一村の名前を、
100年待たずに有名にしました。
もはや孤高・異端などといった惹句の必要もない、
物凄い作品群です。


実は私も、最初は、
「孤高・異端の日本画家」
というサブタイトルにひかれ、この画家の絵を見に行きました。
新宿の三越美術館(99年に閉館)で開催された、
「田中一村の世界」展、1996年のことです。

事前にパンフレット等で見た作品は、
アダン、くわずいもといった南国の動植物を画題にし、
当時見慣れていた伝統的な日本画とも先進的なそれとも意匠を異にする、
どちらかというと「アート」と呼べそうな、素敵な絵葉書になりそう、という印象でした。

ところが。

会場で見たその絵は、形や色はパンフレットのままに違いないのに、
受ける印象は絵葉書どころか、
命そのもの、神そのもの、大気や地動そのもの・・・
何と表現することも当時の私にはできなかったほどの、
大きくて力強い、そして温かいものだったのです。

以来、心腑の奥底を握られた様に取り憑かれ、
田中一村の名前は、ずっと心の中にありました。

なかなか再会の機会には恵まれないうちに、
もう14年たっていたとは、カタログを見てびっくりしましたが、
今回やっと訪ねることができ、
当時より更に引き込まれていきました。


「ドヤ顔」

という表現があることを、最近、インターネットで知り合った若い方から教えてもらいました。
綺麗な女性に使うそうですが、「どや、うち、綺麗やろ?」と言わんばかりの顔、
という意味だそうです。
昔でいえば、美人を鼻にかけたような、という感じでしょうか。
しかしその「どや」という表現が、人に自慢し、見てもらいたい心情として、
いかにもわかりやすいと思うのです。

で、この「ドヤ顔」的なものが、ほとんどの画家の画には、あって当然だと思うのです。
見てもらってナンボ、評価されてどんだけ、の世界なのですから。
画家の気持ちとは比例しません、ただ画とは本質的にそういうものなのではないか、と。

でも、一村の、奄美大島での作品には、限りなくその「ドヤ顔」的なものが感じられない。
見てもらう、評価してもらう、そういう気持ちが、画に、ない。
ただ描くためだけに命を注ぎ込んだ様な画。
・・・
そう感じてふと思い出したのが、伊藤若冲。
画風も、経歴もまったく違いますが、あの絵を見たときも、
一枚の絵に、どうしてこれだけ全てを込められるのか、と驚愕しましたから。
その連想は、カタログにも出てきましたので、あながち間違いでもなかった様です。
・・・

19年の奄美大島での生活は、生計のための染色工としての仕事や、
体調の悪化などで思うように描ける時期ばかりではなかったそうで、
わずかに30点ほどの作品しか描かれていません。
どれも好きですが中で今回一番吸い込まれたのは、
代表作のひとつ、

「アダンの海辺」

大きな明るい黄色の実をつけたアダンの樹を手前に、
遠く夕雲のたつ海辺を遠景に描いた、
等身大ほどもある縦長の画。
よく目立つアダンの樹の生命力も素晴らしいのだけれど、
この画の本質は、柔らかく寄せる波と、
その波に向けて吸い込まれる様に描きこまれた小石の浜辺。
ふたつが交わるはずの部分には不思議な灰色の帯があり、
みつめていればそこに、神が立つのです。


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チェリモヤ文京シビック展 [美術館・博物館]

ギャラリーシビック(文京シビックセンター1階)
「かおる会 2010年 チェリモヤ文京シビック展」
会期:2010.8.1(日)~8.7(土)
訪ねた日:2010.8.1
書いた日:2010.8.2

参考:文京シビックセンターは後楽園駅隣接の、文京区役所の入った公共施設です。


私のホームページ夢紫五色開設当初からお世話になっている方に、
井上芳明さんという方がいらっしゃいます。
素晴らしい仏像写真をホームページで公開なさり、
今はNPO法人「美術研究センター」を立ち上げられ、活躍なさっています。
夢紫五色のリンクからも訪ねることができます。

美術研究センターの会報でご案内を頂いて、
井上さんの写真も出品されている、この展覧会を訪ねてきました。

実は・・・直接謦咳に接する機会もないため、
展覧会の詳細など、ここで説明もできない有様です。
様々な分野の現代美術の第一線でご活躍の方によるグループ展、とご紹介して良いのでしょうか。
油絵・日本画・水墨・陶芸・漆芸・布を使ったアート、
そして井上さんの写真。
頂いたパンフレットの写真を載せますね。

100802cheri.jpg


現代の作家さんの小さな展覧会は、緊張するのであまり訪ねることはありません。
お知り合いの多い小さな個展では明らかな部外者の自分は、
こちらが作品を拝見するというより、どの程度の目を持っているのか観察されているようで、
とてもいたたまれません。
作家さんご本人とお目にかかれることを憧れに感じる方は多いと思うのですが、
知識も感性もとぼしいので満足いく感想ひとつお伝えできないのも申しわけなくて・・・。

実際、仕事で現代美術の勢いある作家さんの個展を訪ね、
ご本人から、どの作品があなたは好きですか、それは何故ですか、と質問され・・・
枯れ木がねじまがったような作品たちを前に頭がまっ白になって、
明らかに作家さんをがっかりさせてしまったことが、
ひどいトラウマになっています。

・・・小さな展覧会を訪ねるのに、こんな苦労を感じる方って、
他にもいらっしゃるのでしょうか(^^;
銀座など、本当にこじんまりした画廊を巡ってみたいと思いながら、
全然足を踏み入れられないままです。


このチェリモヤ展を訪ねた昨日も、
初日の午前中ということで、各作品の前には、おそらく作家さんご本人と、
お知り合いの方たちが賑やかに立たれ、制作秘話のご披露などをされている様子。
お邪魔にならないよう、小さくなりながら奥へ進み、
井上さんの御写真を拝見してきました。

出品は3点。
東南アジアかと思われる、仏像写真2点と、賑やかな市場風景が絵巻のように広がる写真1点。
ここでまた無知が暴露されますが、どこの国の何という仏像だか、どの市場だか、
わかりません、すみませんっ。

仏像写真の1点は、暗い室内の正面奥に、金色の大きな仏身がなめらかに写っているもの。
国はわかりませんがあきらかに東南アジア系の顔立ちであるのに、
その波打つ暗さの奥に輝く姿は、どこか西洋の礼拝堂に通じる静かで涼しい信仰を思わせ、
見慣れた日本の湿りけのある仏像にはあまり感じないことですが、
思わず膝を折って祈りたくなる、頭から打たれるような荘厳な力がありました。

もう1点は、暗闇の中に浮かび上がる、やはり金色の仏、
荘厳具を含めて三尊像なのでしょうか、1点めとは逆に横に広がりのある写真です。
そこにある仏像が暗い室内で光を反射してぼんやり見えている、というよりは、
闇に散る光を集めて仏の形となしたと言うほうが心にすんなりおさまる、
そういう御写真でした。
現地で我が目で見たとしても、このようには見えないだろうと思うと、
写真の凄さが実感されます。

市場の絵巻のような作品は、
魚や野菜を地べたに座って売りさばき、それを求めて移動するたくさんの人々の、
色と生命力に溢れた一幅です。
日本ではもう見られない、という表現をよく聞きますが、
もうというか、室町時代頃はこれくらいの純粋なエネルギーがあったのかも?と、
想像することしかできないような、まさに「絵巻物語」です。


いつも、井上さんには展覧会のお知らせを頂きつつ、
なかなか訪ねること叶わないでいましたが、やっと伺えました。
私が感想を書けるのは仏像に関するものだけですが、
他の方の大作日本画や美しい色の陶器などなど、
琴線に触れるものがあります。
短い期間にここをどれだけの方がご覧になるかわかりませんが、
ぜひ、訪ねてみてください。
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誕生!中国文明 [美術館・博物館]

東京国立博物館 平成館
「誕生!中国文明」
会期:2010.7.6(火)~9.5(日)
訪ねた日:2010.7.8
書いた日:2010.7.13

巡回:九州国立博物館・2010.10.5(火)~11.28(日)
奈良国立博物館・2011.4.5(火)~5.29(日)



いつも思っています。

全ての人は死んでいくのが当たり前なのに、
なぜ、
ひとりの人の死はこんなに耐え難いのだろう、と。


紀元前2000年、中国最古の王朝といわれる夏が誕生した中原、河南省。
その地に北宋滅亡の1127年まで、
入れ替わりたち変わり浮沈したそれぞれの王朝の遺した文物は、
大半が墳墓からの出土という形をとって、今に伝わります。

3000年も前の人たちが生きてあろうはずのないことは当たり前すぎて、
むしろまだ生きていたりしたら困ってしまうだけです。
その時代の世界の人口が何人だったかはわかりませんが、
その数だけ死んで、死んで死んで死に続けて今に至っていることです。

こんなに当たり前で、別に特別なことは何もないというのに、
どうして、遺された副葬品は、これほど特別に、たったひとりの故人を悼んでいるのでしょうね。

葬ってくれたはずの優しい家族も、たくさんの家臣たちも、その子孫もとっくに亡く、
故人が命かけて守り切り開いたであろう、祖国も、
出世の全てであったであろう政治体制も、何もかもが変わり果てた中で、
掘り出された埃まみれの遺物だけが、
往時の故人を畏れかしこみ畏敬とともに慕っていたままの心を留めているなんて。


中国古代文明は本当に勉強不足で、
日本古代史を学ぶにも足りない知識しかないのですが、
やはり、吸い寄せられるように足を運んでしまいました。

展示は三部構成。
第一部 王朝の誕生 では中国王朝の誕生と発展を、
第二部 技の誕生 では玉、陶磁器、漆工、金属器、といった工芸技術の発展を、
第三部 美の誕生 では他の古代文明と異なって今に至るまで連綿と展開してきた文化について、
多くの出土品でたどっています。



第一部で感じるのは、人の想像力ってなんでこんなにヘンテコリンなのか、
それを臆面もなく形にしてしまう力の凄さ。
器の形も、刻まれた文様も、想像できる一番ヘンなものではないのかと思うほどに。
現代の誰であれ、たとえぶっ飛んだ様なアーティストでも、
こんな奇想天外なものは造れないのではないかしら。
それでいて器としての用に叶い、気炎を吐く様な迫力に満ちながら静かに瞑目しているのです。
ここでもまた、人類の数千年の歴史は、退化の一途でしかなかったのではないかと、
その恐ろしい実感に身震いします。

それから死者が身に着けていた、玉器。
古代中国では、磨くことで美しくなる玉を、金よりも上にみていたようで、
かつ、死者の身に玉器をつけることで腐敗を防ぎ、再生をうながすと考えていたそうです。

顔を覆う布に縫い付けられた、目、鼻、口など顔の部分と輪郭を表現する玉の小片。
これは西周後期のカク国の君主のものと推定される墓からの出土。
その隣の、おそらく夫人のものと推定される墓からは、
上半身をジャラッと覆うのではないかと思うくらい立派な、玉の首飾り。

更に圧巻は、時代が下って前漢時代の梁王の玉衣。
頭のてっぺんから両手の指先、両足のつま先まですっぽりと、
人形に玉の小札を金糸で縫い合わせた衣で覆ったものです。
無骨にも見えるその形は、堂々と胸を張って今にもむっくり起き上がりそうです。

この玉衣の王の遺体は、玉製の耳栓、鼻栓をし、
蝉の形の含玉を口にくわえ、玉豚を手に握っていたそうです。
体の穴を玉でふさぐことで遺体に気を閉じ込めておけると信じたそうで、
含玉が蝉形なのは諸説あるようですが、
「高みに昇って不老不死の仙人になれるよう、羽化して空に飛んでいく蝉にあやかろうとしたのだろう」
といわれているとのこと。
豚は冨の象徴だそうです。

亡き人の形に添わせたこの様な出土品を見れば、
人類史上で見れば「○○年、××王没」ですまされることがらにも、
そのたびに悲嘆や号泣、そして哀切な祈りのあったことが、
静かに身に染みてきます。



第二部は、技と銘打ってあるだけに、うわーっと思わず感嘆するものが並びます。

戦国時代の案、いわばお膳のようなものですが、
もっと足が低く、テーブルの様に大きな面をもつものです。
表面には、漆塗りで真っ赤な地の上に黒で雷太鼓みたいな渦巻き模様を、
横9列、縦4列、合計36個並べてあります。
この模様のひとつひとつの線が、とてものびやかで美しいのです。
おもわずいくつか目でなぞってしまいました。


お墓の副葬品ですから、生前生活に使っていたものや風景を、
そのままおさめようとして、陶器などでミニチュアを作ったものがいくつかありました。
コンロで蝉を炭火であぶっているのとか(蝉は食料だったそうです)、
なまずの泳ぐ池にたくさんの水鳥が遊ぶものとか、
ヤギらしき動物を解体する作業中、男性が後ろ足の付け根から息を吹き込んで皮をはぎやすくしている様子とか、
生活そのものがそこにあるように造られていて驚きます。
こうしう生きていたのですねえ・・・。


飲食器やアクセサリーに非常に精巧で美しいものがあったのにも驚かされましたが、
なんといっても肝を抜かれたのは、七層楼閣の模型。
後漢時代のもので「土製」と書かれているのですが、テラコッタと理解していいのかしら。
ちょっとそこらへん定かではありませんが、単なる土というより、焼成粘土に見えました。
ともかくそういう材質でありながら、
180センチの高さをもち、五重塔みたいな造りで、3階と5階には屋根がないので、
全部で7階建て。
窓や壁はもちろん、建築部材にいたるまで細かな装飾の凝った作りになっているうえに、
3,4階からは隣の別棟にむけて空中通路、いわゆる渡り廊下がつながっているのです。
粘土でこんなものが作れる、という驚きと、
後漢時代の洛陽にはこんな建物が平気で建っていたの!?という驚きの、
ダブルパンチでした。

1階の入り口に、忍び足している様な荷物を背負った人物と、ねそべった犬がいて、
6階の窓辺ではこの楼閣の主人と思われる人物が外をながめていました。
はかなくて、空しくて、でも愛しい・・・生きるって、そんなものですよね。



第三部、美の誕生ですが、単純に美しいもののことではなく、
神仙思想、仏教、人と動物、そして書画という、
精神に根ざした美意識の源流をさぐるものとなっています。

なかでも春秋時代の青銅製の神獣、
これは・・・もう、どうしちゃったかと思うほど、
不気味でグロテスクなのにユーモアがあって可愛い、
まさに中国古代文明の想像力の極致のような、憎めない異形です。

説明のしようもありませんが、あざらしのようなヒレつきの下半身、
豹のような優美な体と尾、トドのような長くて太い首、
そして顔が・・・横長扁平な竜で、長い舌をベローンとたらし、
ちょっと笑ったような目は上を向いています。
頭上には6匹のちびっこ竜が角がわりに乗っていますが、
各自くねくね踊りまわっているので、ガラス越しには竜にも見えず、
なんだか頭上で太麺ラーメンが茹っているような・・・。
更に背中に乗せた台の上で別の動物が、小さい竜を踊り食いしていて、
食われているその竜がまた舌をぺろーん・・・
しかも体表一面に竜や鳳凰、トラなどのイレズミですよ。

いやいや、こんなものを想像するのもどうかと思いますが、
それを青銅とトルコ石を使って高さ48センチに具現化し、
大切な人のお墓におさめると・・・うなるしかありません。

なおこれは、もともと1対になっていて、間に太鼓をかける、
鼓架、というものだそうです。



書ききれませんがまだ心に残るものはたくさんありました。
そうして最後にはやはり、
人は死んでいくのに、想いは遺る、
その哀しさと愛しさこそ、人が未来に託せる唯一の真実なのかもしれないと、
長い歴史の中で何もできないまま、この時代に置かれたゴマ粒の如き存在ながら、
首だけはぐるっと、過去から未来を見晴るかせることに、
濃密な喜びを感じるのでした。



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奈良の古寺と仏像 [美術館・博物館]

三井記念美術館
「奈良の古寺と仏像-會津八一のうたにのせて-」
会期:2010.7.7(水)~9.20(月・祝)展示替あり
訪ねた日:2010.7.7
書いた日:2010.7.12

巡回:新潟市會津八一記念館・新潟県立近代美術館・2010.4.24(土)~6.6(日)注・終了
奈良県立美術館:2010.11.20(土)~12.19(日)



最初に知ったのはどこかの展覧会に置いてあったパンフレットでだったでしょうか、

法隆寺 夢違観音
室生寺 釈迦如来坐像
唐招提寺 如来形立像(トルソー)
岡寺 菩薩半跏像
東大寺 五劫思惟阿弥陀如来坐像

が東京に来ると知った時は腰を抜かすほどびっくりしました、
遷都1300年祭の奈良からこんなに良いもの持ち出してきちゃって、いいの!?
・・・
でもすぐに、これだけ持ち出したところで少しも困らないほど、
奈良は素晴らしいのだと思い直し・・・でも少しだけ、
夢違観音さんくらいは、これを楽しみに法隆寺を訪ねる人もいるのではないかしらとか、
室生寺に行って有名な像がひとつないぞ?と残念に感じる人はいるかもしれないとか、
その方たちのために胸を痛めました。


でも、おいそれと奈良に行けない身には大変ありがたい企画です。
待ちに待って、初日の朝から訪ねました。
私の中では、これほどのものが並ぶならば(他にもいろいろですから)、
そして會津八一の名前が出れば、初日から大行列に違いないと思ったのですが、
案に相違して開館時間には50人ほど並んでいただけ。
つまり、ものすごく贅沢に鑑賞できました。
良い仏像関係の展覧会でこれほど素晴らしい環境で見ることができたのは、
東京でははじめてかもしれません。


もともと、落とした照明と美しいガラスケース、
それに古い建物のよさをそのまま残した重厚な空間構成で、
高級宝石店のような印象のこの美術館、
今回も最初の展示室は、瀟洒のひとことです。
金銅仏を主として展示された1室をざっと思い出します。



法隆寺 釈迦如来及び脇侍像(戊子年銘=推古36年/628年)

16.7センチと可愛らしい中尊釈迦如来坐像に、
左脇侍(立像)のみが残っています。
法隆寺金堂釈迦三尊像によく似た印象で、
大きな挙身光(光背)を備えた一光三尊形式。
像も止利仏師系のゆかしさですが、今回良く見えた光背の線刻がことに見事でした。
竜の吐く火炎のような雲気(ではないかと思われますが違うかも・・・)の間に見える、
5体の化仏の穏やかな愛らしさは、どれ程見ていても飽きないものでした。
光背、背面には戊子年記の入った銘文が刻されています。



法起寺 菩薩立像(飛鳥時代)

23.5センチの像。
胸元に寄せた右手で大きな玉を捧げ、同じく腹部に寄せた左手指には小さな玉をつまみ持つ、
ちょっと変わった形です。
山形宝冠のせいもあってだいぶ大きく見える面貌は、何故だか親しみやすく、
斑鳩にふっと残るあの三重塔のおだやかさを思い出させてくれるに充分な懐かしさです。



横井廃寺出土・大阪市立美術館所蔵 菩薩立像(飛鳥時代)

像高19.9センチのこの像を見た時は、ぎょっとしました。
大好きな興福院(こんぷいん)の菩薩立像に良く似ていたから。
いわゆる「両手で宝珠をとる菩薩」の形はもちろん、
腹部にそっと重ねた両手と、その腕から豊かに流れ落ちる天衣の、
下半身に静かに沿って決して派手やかになりすぎないところなど、
本当にそのままです。
帰宅してカタログを見比べると、膝前で交差する天衣といい、
両の足の甲部にゆったりとたるむ裳すそといい、細部もかなり似ています。
ただ、決定的に印象が違いました。
品格の差といいましょうか。
こちらの像、明治28年に出土したものだそうですが、
残念なことに頭部と蓮華座は、発掘してすぐの補作とのこと。
胴と同じくらい太く見えかねない首から上が、不自然というほどではありませんが、
凡庸にすぎて印象が薄いのです。



岡寺 菩薩半跏像(奈良時代後期)

像高36.4センチ。
もっと小柄に感じるこの小さな半跏思惟像は、大好きな仏像のひとつ。
まあるいお顔に柔らかな姿態、そしてなだらかに美しく引き締まっていく半跏する膝下の裳。
緩急相俟って引き込まれるような魅力です。
何より穏やかにかしげたお顔に、陽だまりの様な微笑みという表現がこれほど似合う像はないと思うのですが、
よくよく見れば、尊顔は別に笑顔に刻まれているわけではありません。
ほんのりとぼやかした様に浮き上がる表情は、小さな太陽がそこにあるかの様にあたたかく輝き、
見る者を幸せな夢に包み込んでくれます。
思惟する右手は優美に長い人差し指と中指がたおやかに頬に接しているのはわかるのですが、
続く薬指と小指は、軽く曲げられているのか、破損してしまっているのか、
ケースごしにはどうしても確認できませんでした。
カタログの解説に、
「とある展覧会に出陳された際、本像の絵葉書が一番人気であったというのもうなずける」
と書かれてあったのが微笑ましい、小さいですが人をひきつける仏像です。



東大寺 菩薩半跏像(奈良時代後期)

像高32.8センチ。
東大寺戒壇院に伝来し、聖武天皇の念持仏といわれるこの像も、
一度見ればその由来とともに忘れられません。
高い鼻梁と磨耗したかのようなほのかな目や眉。
思惟するというよりは、内緒話に釣り込むかに見える、存在感抜群の右手。
何より小さな瀧の様な裳の襞の流れの豊かさ。
小金銅仏はそれぞれに特徴があって、現代の造型感覚から見ると独特と言えましょうが、
この像はその中でもまた異種の魅力をもっています。
その、あまりにぼんやりとした表情を見ていて、なんとなく、
もしかしたら、この像を念持仏としていた人は、
亡き大切な人の面影を慕って、像のお顔を優しくなで続けたのではないかしら、
あるいは、視力を失った持ち主が、仏の尊顔にすがって触れ続けたのではないかしら・・・
そんな姿を夢想する程に、体部や裳の思い切りの良い刻み方と、
面部のなだらかさには差がありました。



展示室1には他にもハッとする様な金銅仏、押し出し仏が並び、
全てが重文指定ですから見ごたえものすごいです。
大きさをお知らせしたかったので像高を書き出しました。
普通に考えれば小さな像たちですが、
渦巻く存在感と魅力が濃密に満ちみつ空間は、
仏像が好きな方には至福の時を過ごさせてくれると思います。



展示室2には、一体だけが静かに展示されています。

法隆寺 菩薩立像(飛鳥時代)

法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍によく似た、止利仏師系の像。
あれです、56.7センチと、ちょうど生まれて少しした赤ん坊くらいの丈でありながら、
頭身が赤ん坊のものではなく、かといって大人を縮小したものとも違い、
ものすごく不思議で、特に育児を経験したせいなのか何なのか、
ちょっと、背筋がゾッとするような違和感がある、あの像です。
しかもその違和感がそっくり、底知れぬ場所から揺らめき上る何かの力として迫ってくる物凄さ。
法隆寺夢殿の救世観音像を見た時にも、同じような力を感じます。
静かな表情、動きも少ない直立した姿態の小さな像でありながら、
ウッと一歩ひいてしまう何かの存在は、
宗教というよりもっと根源的な存在の不思議さにまで遡っていけそうです。



展示室、ひとつ飛ばして4では、

東大寺 五劫思惟阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)

これが私にとっての白眉です。
ほぼ等身大の坐像は五劫(一説に21億6千万年)というとてつもなく長い時間、
思惟を続けた姿を、ロング・パンチパーマとなった異形の髪で表現するという、
特別変わった相の、でも一目でわかりやすい形。
うらなり瓢箪のように張りもなく下ぶくれた頬と覇気の無い目鼻立ちに、
重くて首がゆらゆらするのではないかしらと思うほどの巨大な頭髪を乗せて、
通肩の衣に覆われたちんまりとした肩で座禅し、合掌する姿。
そう、その、腕にたるむ衣からついと出され、まっすぐやわらかに合わせられた両の手の、
あまりに無垢なことに打たれ、思わず涙が・・・そして、自然と、
自分も合掌して瞑目しないではおれませんでした。


この展示室4には東大寺・西大寺・唐招提寺・薬師寺からの諸仏が集まっています。
東大寺の四天王立像(鎌倉時代)が人好きのする顔で見下ろし、
西大寺の塔本四仏像(奈良時代)が端正な顔立ちで座っています。
7月27日からは、唐招提寺の如来形立像(トルソー)が並ぶのもここだと思います。


ずっと飛ばして最後の展示室7。
ここには長谷寺・室生寺・當麻寺・橘寺・法隆寺・大安寺・秋篠寺・元興寺からの諸尊が並びます。

室生寺 釈迦如来坐像(平安時代)
橘寺  伝日羅立像(平安時代)
法隆寺 観音菩薩立像(夢違観音・奈良時代前期)

なんだか、よくぞいらして下さいましたと、感謝したくなります。
初日の様子のままでしたら、お昼になってもさほど混雑はしませんでしたので、
ゆっくり対峙できると思います。



ここまで書いてきて、あれ?副タイトルの會津八一はどうなっているの?と、
思いませんか?・・・実は私など会場でまさにそう思いました。
うかつにも一巡めの展示室5まで気づかなかったのですが、
展示ケースの上部に、それぞれのお寺での、會津八一の歌がちゃんと貼られていました。
仏像とその解説ばかり見てまわっていたので、さっぱり気づきませんでした。
うたは小さく、目立たなく貼られているので、落とした照明のせいもあり、
年配の方には読めなくて放棄なさっている方もちらほら。
もっと、會津八一を前面に出しての展示と予想して行ったので、
かなりびっくりしましたが、逆に好ましくも感じました。
好きなうたでも、こう感じろといわんばかりの展示であっては嫌でしたので。

それに、展示室3と6には八一関連の資料が置かれていました。
書や歌集、歌碑拓本、それから写真など。
薬師寺でうたった

すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな

の八一本人の書に、杉本健吉が薄い朱で落書の様にさらっと飛天を描かれてあわせたものなど、
欲しい・・・と喉から手が出る気持ちでした。


また展示室5には仏教工芸品が並び、

西大寺 金銅宝塔(鎌倉時代)
法隆寺 金堂天蓋天人(奈良時代前期)縦笛と琵琶の2体
法隆寺 金堂天蓋鳳凰(奈良時代前期)

など、展示ケースに張り付いてしまうものが来ています。



この「奈良の古寺と仏像-會津八一のうたにのせて-」は、
巡回展なのですが、少し変わっていて、
最初の新潟では、八一の故郷ということで、八一関連の資料を充実させ、
今回の東京では仏像と仏教美術の充実で八一が愛した奈良の魅力を伝える。
最後の奈良では、八一を通して奈良の仏教美術に開眼した人々が、
それを後世にいかに伝えようとしたかを中心に展示されるそうです。
「会場ごとに出展品の多くが入れ替わる変化に富んだ展示構成」
とカタログの「ごあいさつ」にあることではじめて確認しましたが、
先ごろ蜘蛛やカビで騒ぎになった、中宮寺弥勒像の出御は、この新潟展へのことだったのですね。

カタログは全展共通のようで、今回出品のないものも含めて、
八一と、八一の愛した奈良が通観できるようになっていて秀逸です。

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国宝燕子花図屏風 [美術館・博物館]

根津美術館
「新創記念特別展 第5部 国宝燕子花図屏風 琳派コレクション一挙公開」
会期:2010.4.24日(土)~5.23(日)
訪ねた日:2010.5.14
書いた日:2010.5.15


五月晴れの一日、気になっていた根津美術館を訪ねました。
昨秋、大規模に新装なっての開館を記念して連続で開催されている特別展の、
今回は第五部。
根津美術館の最も著名なコレクション「燕子花(かきつばた)図屏風」が4年ぶりに出ます。
ちょうど季節ですしね^^

東博あたりの大混雑にはほど遠く、
10時開館のところ10時20分頃に到着すれば、並ばずに入館できました。
(12時すぎに出てくる頃は、50メートルほど並んでいました)


尾形光琳筆、燕子花図屏風(18世紀)。
・・・若い頃から何度か見ているのですが、実は・・・
どうしても、あまり素晴らしいと感じられない作品のひとつです。
根津といえば燕子花図屏風、国宝、大人気、光琳の代表作!というものなのに、
感じるものが乏しい自分の感性の貧しさが恨めしくなります。

以前見たのがいつだったか・・・少なくともいくつかは年をとりましたから、
また別の見え方がするかもしれないと希望をもって対面したのですが、
やはり、のっぺり・・・という印象。

根津美術館のサイトにも、
「濃淡の群青と緑青によって鮮烈に描きだされた燕子花の群生」
「リズミカルに配置された燕子花」
「顔料の特性をいかした花弁のふっくらとした表現もみごと」
と解説されている通り「のっぺり」という印象とは程遠いはずなのに。

もっとも、東博ほどではないといいつつ、
会場内は充分混雑していましたから、
どこの屏風鑑賞でも最大の欠点、
「離れた位置から全体を見るのは居並ぶ人が邪魔で不可能」
という状態でしたから、
もし、静かな環境で本当にゆっくり全体を見ることができたなら、
もしかしたら、違う何かが見えてくるのかもしれません。

そんな時に巡りあえるのを楽しみにしています^^



その他の作品は「琳派コレクション一挙公開」とある様に、
伝宗達、光悦、尾形兄弟、抱一、其一と、数は多くないですが充実しています。

特に、普段美麗な作品ばかり記憶に残る抱一の小ぶりな墨絵は、
ちょっと意外で面白かったです。

それから、其一の「夏秋渓流図屏風」。
解説版に「アメーバの様な」と書かれていましたけれど、
渓流というには粘着質に踊る鮮やかな群青の水の流れにそって、
コケの目立つ樹木が密度濃く描かれ、
その合間合間に、素晴らしく写実的な百合が咲き乱れています。
ここまででも充分迫力があって印象深いのですが、
いったい何故か、樹の陰から顔をのぞかせる笹が、
こう・・・お弁当箱に入れるちょっと豪華な飾り、とでも言いたくなるほどの、
写実とは正反対のペッタリテカテカの装飾的意匠になっているのです。

この絵の前で、何故だ!?と考えることに、きっと意味はないのだと思います。
私には、其一という人の狂気がそのまま伝わってくるような気がしました。
生きにくかったんじゃないだろうかとすら・・・。


さて、そんな有名な人たちの作品の中にあって、
なんとなく気に入ってしまったのが、
尾形宗謙作「新古今和歌集抄」。
繊細な装飾のほどこされた、柔らかな薄茶色の料紙に書かれた書です。

書、まるっきりわからず、これも一文字とて読めません(自慢になりませんね!)。
なのに、すごく豊かな抑揚で均整がとれていて、
とどのつまり、見ていて、綺麗だなーと思えたのです、読めないのに。

尾形宗謙さんは、光琳・乾山兄弟のお父さんだそうです。
見ていて、なんとなく、芸術家の苦悩ではなく、
商売やってる人の健全な明るさを感じました。
事実、京都の裕福な呉服屋さんだったようですね。

この書を見て、はじめて、連綿体って、良いなあ・・・と思いました。
なんというか、別に芸術家を気取っていなくても、
(いや、本当は気取っていたのかもしれませんが!)
こんな美しい文字を書いていた江戸時代って、やはり教養の底が深いと思いました。
ひきくらべて、今私たちが書いている楷書体、一文字一文字ばらばらの文字、
なんだか風情がないなあと、寂しくなってしまいました。



さて、平常展にあたるコレクション展の部屋では、
茶室のある展示室6で「燕子花図屏風の茶」という特集をしてました。
燕子花図屏風をお披露目する際の茶会の道具立てが再現されています。

その中にあった、
「茶杓 共筒 銘 五月雨 /小堀遠州作」
がちょっと興味深かったです。
茶杓の柄に、ぽつんとごく小さな虫食いの穴があるのを見つけ、

「星ひとつ みつけたる夜のうれしさは 月にもまさる さみたれのそら」

という古歌から「五月雨」の銘をつけたのだそう。
虫食い穴はガラス越しに見たところ径0.5ミリもないくらいの、ちまっとまん丸。
こんな穴に、愛情をそそいで古歌を持ち出してまで名前をあげる、
その風流を思いやればやはり優しく幸せな気持ちになれます。
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