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田中一村 新たなる全貌 [美術館・博物館]

千葉市美術館
「田中一村 新たなる全貌」
会期:2010.8.21(土)~9.26(日)
訪ねた日:2010.9.14
書いた日:2010.9.20

巡回:鹿児島市立美術館・2010.10.5(火)~11.7(日)
田中一村記念美術館・2010.11.14(日)~12.14(火)





田中一村 たなかいっそん
明治41年(1908)栃木県の木彫家のもとに生まれ、
幼時より特定の師匠をもたないまま、天賦の画才を発揮。
若くして人気南画家となり、東京美術学校(現・東京藝大)に入学するも2ヶ月で退学。
その後日本画に転向、中央画壇に認められなかったため見切りをつけ、
昭和33年(1958)50歳で単身、奄美大島へ移住。
以後、染色工として働きながら、独自の画境を極めた絵を描き続け、
一作品も世に発表することのないまま、69歳で孤独死。

まったく無名のまま終わった、この孤高・異端の画家が、一躍大人気となったのは、
没後の昭和54年、まず南日本新聞が取り上げ、
続いて昭和59年、NHKが日曜美術館で放映して以後のことだそうです。
しかし、その人気に、研究が追いついておらず、
いわゆる「ブーム」として終わってしまうことを懸念した関係美術館が、
一村生誕100年となる平成20年を機に、
共同して地道な調査研究に努めた成果が、今回の、
「新たなる全貌」というサブタイトルに込められているそうです。
数え年8歳の頃からの作品をはじめとして、
新発見を含む250点もの作品を年代順に網羅した素晴らしい展示でした。


まず、幼少の頃の作品。
数え8歳で描いた蛍や松の短冊、数え9歳の白梅、同11歳の蛤の色紙。
この4点だけ見ても、私の様な素人には、
老成した大画家が知人に気軽に描いて贈った、というような、
上手いだけでなく、情趣の備わった余裕のある筆運びに見えます。
特に蛤の図は「わびさびの境地まで表したかのような作品」とカタログにも書かれています。
10歳でわびさびとは・・・昔の人は皆早くから大成していた様ですが、
それでも、先の人生が安穏であるはずもない天の才を感じます。


それから二十歳すぎる頃までは、当時政財界で流行していた、
上海派風の南画を描き、人気だったそうです。
墨跡の力強く、挿す色もはっきりとした蘭だの菊だの梅だのの南画は、
たしかに、これぞ政治家の座る背後の壁に飾れば次期も当選確実!
と思えるような豪快な自信と精気に満ちています。
・・・いや、そのように見える、ということです。
奄美大島時代の作品に魅せられた人にとっては、この時代の画風は、
あまりに違いすぎて同じ人のものとは思えず面食らうことでしょう。

でも、赤貧・異端・孤高ということで人気のこの画家に、
大人気で描けば売れる時代があったことを知るのは、
何を捨てて何を求めていったのか、想像する伝にはなると思うのです。

東京美術学校の2ヶ月での退学は、
大正15年(1926)のことですが、
正確な理由は特定されていません。
父親や自身の病気や金銭的なことが取りざたされています。
その少し後頃までが、南画家としてのピーク。
時代が中国文化への憧憬を薄れさせ、南画の需要も低減、
同時に画風の模索が始まったようです。

昭和10年代にかけての作として今回紹介された、
「秋色」
は、豊かな色彩がリズミカルに絡み合う日本画で、
あの豪快な南画を描いていた筆が、
どうしてこう心を癒す優しい軽さを持つようになったのか、
不思議なくらいです。


昭和13年(1938)、千葉に移り住み、
地元の人に支えられながら、自給自足にも近い生活の中、
独学で画風の試行錯誤を繰り返しながら過ごします。
終戦をはさんで昭和33年(1958)まで続くこの時代の作品は、
水墨を主とした山水画から伝統的な花鳥画にならったものまで多種多様。

中でも特に、お世話になったまわりの人へお礼として贈ったりしたらしい、
千葉の在所の田園風景の数々は、とても温かな郷愁に彩られ、
何の変哲も無い風景なのに、心ひかれます。
千葉を描く最後の絵だと本人が言ったという「暮色」は、
薄く色づく夕空に、墨だけで描かれた木立が、
涙の様に溶け出していて、豊かな余情がなんともいえません。

たくさんあるこの時代の千葉近郊の絵は、どれも知った人が見れば、
道筋ひとつまで正確に思い出せる類のもので、
点景としてただ添えられただけの様に見える小さな人物像も、
近所の○○さんだというように、すぐわかる特徴をもって描かれているのだそうです。
画家のお人柄がしのばれます。

その優しかっただろうことは、若くして亡くなった隣人の息子さんを、
遺された小さく傷んだ写真をもとに、鉛筆で大きく引き伸ばして模写した肖像画からも、
よく伝わってきます。
本当に写真を引き伸ばしたかの様な達人技だけでなく、
その絵からはぬくもりが溢れ出しているようなのです。


この千葉時代に、一村と改名し、公募展にも出品。
いくつかをのぞいて落選が続いたため、見切りをつけ、
奄美大島に移住することになります。

何故、奄美大島だったのか。
直前に九州・四国などへ旅行はしていますが、
では何故奄美大島だったのか。
ご本人の言葉は何も残っていないそうです。

ただ、千葉時代を通して、一村を「100年後に評価される画家」と信じて、
支援し続けてくれた親族他があり、
また、同じ気持ちで独身を貫いて一村を支えた、姉上があったことが、
その理由ではないかと、カタログでは推測されています。
つまり、中央での落選が続き、それらの人々の期待に添えないという、
深い落胆からの逃避。

当時、米国から返還されて5年、日本最南端であり、
異文化に近い環境だった奄美大島は、誰も追ってこれない逃げ場所として、
たしかに最適だったのかもしれません。
それが真実かどうかは永遠にわかりませんが。


そしてこの、奄美大島での作品が、一村の名前を、
100年待たずに有名にしました。
もはや孤高・異端などといった惹句の必要もない、
物凄い作品群です。


実は私も、最初は、
「孤高・異端の日本画家」
というサブタイトルにひかれ、この画家の絵を見に行きました。
新宿の三越美術館(99年に閉館)で開催された、
「田中一村の世界」展、1996年のことです。

事前にパンフレット等で見た作品は、
アダン、くわずいもといった南国の動植物を画題にし、
当時見慣れていた伝統的な日本画とも先進的なそれとも意匠を異にする、
どちらかというと「アート」と呼べそうな、素敵な絵葉書になりそう、という印象でした。

ところが。

会場で見たその絵は、形や色はパンフレットのままに違いないのに、
受ける印象は絵葉書どころか、
命そのもの、神そのもの、大気や地動そのもの・・・
何と表現することも当時の私にはできなかったほどの、
大きくて力強い、そして温かいものだったのです。

以来、心腑の奥底を握られた様に取り憑かれ、
田中一村の名前は、ずっと心の中にありました。

なかなか再会の機会には恵まれないうちに、
もう14年たっていたとは、カタログを見てびっくりしましたが、
今回やっと訪ねることができ、
当時より更に引き込まれていきました。


「ドヤ顔」

という表現があることを、最近、インターネットで知り合った若い方から教えてもらいました。
綺麗な女性に使うそうですが、「どや、うち、綺麗やろ?」と言わんばかりの顔、
という意味だそうです。
昔でいえば、美人を鼻にかけたような、という感じでしょうか。
しかしその「どや」という表現が、人に自慢し、見てもらいたい心情として、
いかにもわかりやすいと思うのです。

で、この「ドヤ顔」的なものが、ほとんどの画家の画には、あって当然だと思うのです。
見てもらってナンボ、評価されてどんだけ、の世界なのですから。
画家の気持ちとは比例しません、ただ画とは本質的にそういうものなのではないか、と。

でも、一村の、奄美大島での作品には、限りなくその「ドヤ顔」的なものが感じられない。
見てもらう、評価してもらう、そういう気持ちが、画に、ない。
ただ描くためだけに命を注ぎ込んだ様な画。
・・・
そう感じてふと思い出したのが、伊藤若冲。
画風も、経歴もまったく違いますが、あの絵を見たときも、
一枚の絵に、どうしてこれだけ全てを込められるのか、と驚愕しましたから。
その連想は、カタログにも出てきましたので、あながち間違いでもなかった様です。
・・・

19年の奄美大島での生活は、生計のための染色工としての仕事や、
体調の悪化などで思うように描ける時期ばかりではなかったそうで、
わずかに30点ほどの作品しか描かれていません。
どれも好きですが中で今回一番吸い込まれたのは、
代表作のひとつ、

「アダンの海辺」

大きな明るい黄色の実をつけたアダンの樹を手前に、
遠く夕雲のたつ海辺を遠景に描いた、
等身大ほどもある縦長の画。
よく目立つアダンの樹の生命力も素晴らしいのだけれど、
この画の本質は、柔らかく寄せる波と、
その波に向けて吸い込まれる様に描きこまれた小石の浜辺。
ふたつが交わるはずの部分には不思議な灰色の帯があり、
みつめていればそこに、神が立つのです。


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