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興福寺東金堂後堂 正了知大将立像 [寺・仏像など]

先日書いた、興福寺東金堂後堂開扉で拝観できた、
正了知大将立像ですが、
その後、東博に掲示されていたポスターで再会できました。

ポスターならば写真構わないこと館の方に確認したので、
載せておきます。

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踊り大将の名の由来となった火事は平安時代(寛仁元年/1017)、
現在の像は室町時代の再興とのことで、
その火事で当時の人たちが感嘆した姿とは異なるものですが、
秋日のうらうらと差し込む中で、明るさを増して立っていたこと、
想像していただけるのではないでしょうか。


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2011年奈良(3)-藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺 [寺・仏像など]

翌日はJRで法隆寺へ行くことに。
JR奈良駅が見違えるといいますか、まったく別の近代的な駅になっていたので、
ひとりワーワー大騒ぎしてしまいました。
かつての懐かしい駅舎は、高架となった線路と切り離されて残っていましたが、
そのまま保存されるのでしょうか。

法隆寺駅からはタクシーを覚悟していましたが、ちょうどシャトルバスに乗れました。
降りて門まで歩くわずかな間に、非常に熱心にビラを配っている女性が。
その様子から、明らかに物販や宗教的な勧誘とは違う気がしたので、
なんとなくビラを手に取ると・・・

「藤ノ木古墳 石室特別公開」

え!?なんですって!?
聞けば毎年春と秋に公開しているそうですが、
今年は震災のため春は中止、秋はこの5日、6日の二日間だけとのことです。
まさに千載一遇、天からの棚から牡丹餅。
「古墳に入れるなんて、めったにないのよ!」
と、子供を引きずる様にして行ってみました。


法隆寺を最後に訪ねたのが何年前だったのかどうしても思い出せないのですが、
おそらく、5,6年・・・もう少し前でしょうか。
帰りに利用したタクシーの運転手さんが、
近いからと藤ノ木古墳を経由してくれたことがありました。
その時は狭い民家の間を走り、ここだよと教えていただいても、
他の小さな古墳同様、森の様なものが見えるだけだった気がします。

ところが、今回は法隆寺の門前を左に曲がるともうそこから、
まるで遊歩道の様に明るく整備された道が続いています。
確かに民家や田畑の間を通りますが、迷うことのない一本道、
藤ノ木古墳そのものも、小さな公園の様に整備されていて驚きました。

石室内部は狭いため一度に10人程度しか入れません。
ちょうど団体さんとぶつかったため、40分ほど待ったでしょうか。
その間、ボランティアの腕章をつけたたくさんのスタッフの方に、
古墳のこと、昨年(2010年3月)出来たばかりという斑鳩文化財センターのこと、
それからひこにゃんより昔からいるとご自慢らしい、ゆるきゃら「パゴちゃん」のこと、
たくさんお話して頂きました。

斑鳩文化財センター
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/spot10/ikarugabunnkazaisennta.html

パゴちゃん
http://www.town.ikaruga.nara.jp/syo/item_420.html

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いよいよ古墳内部です。
羨道には、人ふたりがやっとの幅の橋げたの様な通路が組まれていて、
玄室ぎりぎりまでたどっての見学です。
玄室内はわずかな照明ですが充分に見え、4メートルという天井のお陰か広く感じます。
奥に横向きの家形石棺。
わずかに朱色が残ります。
そこで、男性二人の被葬者が確認されたこと、
貴重な未盗掘の発見で、出土品はすべて国宝指定をうけたこと、
それだけの副葬品が出ても、被葬者が誰かの特定はできていないこと、
崇峻天皇陵という説も出たものの、他に有力な候補がある(赤坂天王山古墳)ため確定しないこと、
など、中にふたりいらした係の方の片方がお話してくださいました。

古墳の持つ独特の雰囲気はとても言葉にはできません。
お墓ですから・・・
あばいて土足で「見学」を暴挙かもしれないと感じる気持ちを大切にしながら、
でも、忘れないで欲しいと願いながら逝き、忘れないからと泣いて葬った、
そんな遠いご先祖様たちを、今もこうして忘れないで訪ない、
どなただったのかと問いかけ続けることは、小さく無力な命の連続の中で、
今、できる最大のことなのかもしれないとも思います。



来た道を戻って、法隆寺です。
中門を左に行って回廊の中に入れば、本当にいつ来ても満たされて安心する空間です。
調和がとれているというのか、無用なものがないというか。

まず五重塔。
雨は降っていませんでしたが、薄曇のこの日、明暗差が少ないお陰か、
塔の扉から垣間見る内部の塔本塑像(塔本四面具)、よく見えました。
若い頃はこの群像の良さなどわかりませんでしたが、
今しみじみ見ると、素朴で無慈悲にも見える忽然感で、そこにおさまっています。
手前のわずかな扉と金網で守られただけの小さな空間に、
ただただあり続けた土の像たち。
そのことだけ思っても、ぞくぞくします。

悟りや論説の場面、表現の静かさも凄いと思いますが、やはり、
一番記憶に残るのは、北側の釈迦涅槃図(北面涅槃像土)、
釈迦の今際の際にただただ号泣するしかない僧たちの、
小さな土人形。
胸を叩き、天を仰ぎ、地に伏し、
大きな口をあけて顔をくしゃくしゃにして、吼える様にあられもなく嘆く姿は、
人間の有様を見せて本物の人間以上ではないでしょうか。
小さな土人形の伝えてきたものの大きさに粛然とします。


それから金堂。
「ライトアップ」がされてから初めて訪ねます。
ここも、見学者の便だけを考えた豪勢な照明かと心配したのが、
どこから照らしているのかも一見わからない、ほのかな明かりだったので、
もう今回何度感じたかわからない安堵を覚えました。
色味のせいか平面的に見えてしまうのは、致し方ないことでしょうか。
少なくともまず立ち止まる全員がつぶやいていた「見えない」という愚痴だけは、
封印できていると思いました。
四周の壁画(複製)もよく見えましたし。

・・・もっとも私は、暗さの中じっとしていると、
やがて像が形を作って浮かび上がってくる、あの瞬間が好きだったのですが。


ここの仏像はそれぞれの姿に感じ入るというよりも、
この空間すべてでひとつの感動を与えてくれるものと思います。
ぽっかりと、異空間の眼前に広がる様子は、
見たことはなくても、たとえ想像だとしても、
ここだけに古代の時を留めていると思わせる強い拒絶感で迫ってきます。
決して、踏み込むことを許されない時の空間として。


講堂のあっけらかんとした中を通り、鏡池のある庭?へ。
かつては大宝蔵殿へ直進していたのを、うろ覚えに左のほうへ行くと、
平成10年落成の、百済観音堂のある大宝蔵院への道順が出ていました。
のっけから夢違観音像、玉虫厨子、九面観音像と、極上の宝物が並びます。
中央に百済観音像がいらして、橘夫人厨子、百万塔と百万塔陀羅尼などなど、
他も勿論、こちらの器が間に合わないくらい、素晴らしいものが次々流れこみます。
しかし子供は、もう五重塔時点で辟易としていた様子で、
さっさと進んでしまうのを、大きな声で呼び戻して無理矢理見せてしまいました、
ご迷惑おかけしてすみません・・・。

本物を見せたかったのは勿論見ですが、実は自分が子供の頃、
「玉虫の厨子は玉虫の羽を使って飾っていた」
というのを聞いて、いったい虫の羽をどこにどう使っていたのか、
表面に貼っていたのか?それとも下部を取り巻く虫の甲羅めいたものが羽だったのか?
そもそも玉虫自体あまり見慣れない虫だったこともあり、
さっぱり想像もつかないまま長く疑問でした。
厨子を取り巻く透かし彫りの金具の下に文字通り玉虫色の羽を敷き詰めていた、
というのを知ったのは、成人してからです。
しかし今ここには、実際の荘厳の様子を1区画分ですがきらめかしく再現したものが参考展示してあります。
これを見せたかったのです。
今は黒ずんで落剥の風情漂う厨子ですが、
当初はこのまばゆい金と玉虫色に輝くものすごいものだったと、
子供は想像してくれたでしょうか。


そこから東院へ。
この道はいつも、上原和さんの聖徳太子論の表題「斑鳩の白い道の上で」を思い出します。
渋い紅葉が綺麗でした。

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夢殿では、私が世の中で一番怖ろしい仏像、と思っている、

救世観音像

が秋の開扉期間で拝観できます。
怖ろしいです、ただただ、ぞっとします。
憤怒像でもないし、静かに佇んでいるだけなのに、
どうにもこの怖ろしさは、最初に見たときから変わりません。
不思議ですね。
聖徳太子の等身大像といいますが、デスマスクではないのかと思ったことすらあります。
あまりにも人間そのものなのですもの。
肉食をし、鼻息の荒い、まぎれもない男の人がそこに立っている気がするのです。
しかも、有無を言わさぬ力で迫ってくる。
それはそれは、怖ろしいです。


ここから、最後の訪問、中宮寺へ。
今までの、古代建築を残そう、守ろうとする大寺院に比べて、
昭和の建築が池に囲まれて建つ姿は柔らかに感じられて、
子供も少しほっとした様子でした。
靴を脱いで仏像の前に座ってお話を聞くというのも、
考えてみればこの旅ではじめて。

半跏思惟姿の弥勒菩薩像はやっぱり不思議です。
私にはまだ、はっきりと形を見せてくれません。
好きとも嫌いともなく、荘厳の少ない小さなお部屋につくねんと座ってらっしゃいました。


覚書がわりにと長く書いてしまいました。
今年の奈良は、これでおしまい。
来年中学に入る息子。
おとなしく?奈良について来てくれるのも今回まででしょうか。
何でもいいです、本物の持つ力だけでも、感じてくれていれば。

正倉院展にあわせてコツコツ秋の奈良に通って四半世紀を越えました。
訪ねるたびに、想いが深くなっていきます。

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2011年奈良(1)-東大寺 [寺・仏像など]

去年、物心ついてはじめての奈良を、

元興寺の天井裏見学
http://msrusano.blog.so-net.ne.jp/2010-11-06

という、お寺仏像好きにしても極めて地味な体験で飾った小六の息子。
今年の奈良も連れて行くことにしたので、今回はせめてお友達に話せる場所へと、
まず東大寺へ向かいました。

秋に25年以上通って去年がはじめての本格的雨の奈良でしたが、
今年もまた、雨模様。
息子が雨男なのは決定したようです。
登大路の緩やかな坂道を、既に飽きた疲れた帰りたいを連呼する子供をなだめつつ、
鹿にせんべいをやらせたりなどしながらゆっくり登りきり、
若草山を遠望する参道を左手に曲がると、もうすぐそこに、ゆったりと大きな南大門。
この頃からいよいよ雨粒も落ちてきて、息子の不機嫌が一層つのり、
せっかく習いたての「運慶・快慶」の仁王像だと教えても、
見る気がまったくない様子。
困ったものです。

ちなみに、かつては、右の口を閉じた吽形が運慶、左の口を開けた阿形が快慶、と、
子供に教えやすかったのですが、昭和から平成にかけての解体修理で発見された納入品や墨書から、
そんな簡単なものではないとわかり、私などではよく理解も叶わないので、
とにかく「運慶・快慶が作った像」と説明するしかなかったことを白状しておきます。


門を越えてすぐ、左手に、気になっていた東大寺ミュージアム。
(東大寺総合文化センター http://culturecenter.todaiji.or.jp/ )
今年10月10日に新規開館したばかりの、寺宝などの展示施設です。
あの境内にコンクリ造りの「ミュージアム」とはどんな殺伐とした風景になっているのかと、
密かに心を痛めていたのですが、一目拝見してすぐ、
一観光客の浅はかな心配を恥じました。

木立に見え隠れしたのは正倉院正倉や、唐招提寺金堂を思い出させる、
低くておおらかな、寄棟造の屋根。
柱も壁も雨の境内に溶け込む様で、違和感がないどころか、
うっかりすれば大きな寺院によくある塔中や会館と思って気づかず通り過ぎそうです。
図書館や収蔵庫、研究施設も備わっているそうなので、
全体がどんな造りになっているのかはわかりませんが、少なくとも、
参道から眺めるには、気持ちの良い風景でした。

早速中へ。
予想外にこじんまりした空間。
ほの暗い中、LEDの光と反射のおさえられたガラスに守られて、
まず目をひくのは誕生釈迦仏立像及び灌仏盤。
小さなお釈迦さま像が、大きな平鉢の中で右手を上げてにっこり立っているあれです。
それから、直径6センチほどの銀製鍍金狩猟文小壺。
これは東大寺金堂鎮壇具のうちのひとつです。
この2つの展示は、去年東博の「東大寺大仏」展にも来ていて、
やはり照明が工夫されていましたが、その時よりよほど良く線刻が見えます。
賑わっているとはいえ、東博の混雑とは比較しようのない人の少なさもありがたいです。

ここに並ぶ一連の鎮壇具の中に、
「熟年の男性的な歯との所見がある」(カタログより)人の歯が一本あり、
これが聖武天皇のものかもしれないと言われてもいることを他の方のブログで知りました。
実は、とにかく子供のことを考えて、見たいものだけと思い、
鎮壇具はさらっと流してしまったので、この歯、見ていません。
残念です・・・。
(聖武天皇の御歯であるかもしれない、ということは出典確認していません)

左の壁に、金堂前に立つあの金銅八角燈籠の火袋羽目板のうち、
昭和37年に盗難にあって翌日破損した姿で発見された1枚。
バッ子を手に無心に衣をひるがえす音声菩薩の姿を見るにつけ、
昭和37年という、歴史上で見ればただ今とほぼ同時代に、
盗難・破損などと恥ずかしい行為のあったことが、情けなく申し訳なく思えます。
(バッ子=バッは、跋の偏が金になった字。ばっし。
金属製の小さな鍋蓋みたいなものを両手に持ち、打ち付けて鳴らす、様に見える打楽器です)

この第一室にはいずれ昨年わかって話題となった、陽剣、陰剣も加わるそうですが、
今は写真や解説板が置かれています。
他に伎楽面など並んで再奥に西大門勅額。


次の第二室、いよいよ、不空羂索観音立像と、日光菩薩立像、月光菩薩立像です。
新聞の報道写真で見た時は、大きな展示ケースの中にきらきらしく立つ姿が、
何かうそ寒い様に寂しく見えたのですが、
ここでもまた、甚だしい思い違いを反省させられる嬉しい結果となりました。

思っていたよりもずっと身近で小ぶりの展示ケースに立つ3つの像は、
光の加減かずいぶん温かな空間を作り出しています。
宗教とか美術とか、何かそういう枠など超えて、
ただただ、大切にされているという印象です。
そのためでしょうか、あの厳(いかめ)しさで一頭地を抜く不空羂索観音像が、
夢紫五色掲示板の常連さんのご感想にあった、
「方向によっては優しい女性のお顔にも見え」たというのを、
そんなばかなと訝っていたのが、実際拝見すると、まさに女性的、
ひどくたおやかに見えたので、我が目を疑いました。

三月堂では光背と宝冠に荘厳され、古い空間の中、最大の威厳を示し続けていたのが、
このミュージアムでは控え室に戻った様に、化粧を落とし、ほっと気を緩めているのでしょうか。
最も男性的と思っていた像が、化粧(けわい)のすべてを落とせば女性だったという驚き。
6本の腕など四月堂の千手観音像を思い出させる、
うねうねとなまめかしい色気まで感じました。

総じて展示に不満はなかったのですが、唯一、
この最も主要な不空羂索観音立像の展示ケースが四枚ガラスになっていて、
観音像の正面がガラスの継ぎ目となっていたのが、ひどく気になりました。
反射の少ない綺麗なガラスなだけに、何故こんなことに、と残念です。
中央に一枚ガラスをもってこれなかったのでしょうか・・・と、
ぶつぶつ思っていましたら、これも他の方のブログで「噂話」として見たのですが、
いずれ観音像が修理を終えた三月堂に戻った後には、
ここに(日光・月光とともに)弁才天立像、吉祥天立像が並ぶのではないかとのこと。
なるほど、それなら、4枚ガラスのわけも納得がいきますね。
(出典・噂の出所など調べていません)

あとは第三室で子供になんとか二月堂本尊光背と弥勒仏坐像(試みの大仏)を見せて、
超特急で外へ出ざるをえませんでした。
秘仏とか、大仏さまのお試し版などという単語には少し興味を示してくれるのですが、
もうこの時点で、他は全然だめでした。

カタログ表紙は素の不空羂索観音、

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裏表紙が後姿だったのが、何故か愛しく感じました。

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チケットは大仏殿と共通だと少し安くなります。

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☆東大寺ミュージアム開館記念特別展「奈良時代の東大寺」は、
カタログによれば、
2011年10月10日(月・祝)~2013年1月14日(月・祝)になっています。
(途中展示替えあり)
しかし、公式ホームページには終了日の記載がありません。
同時に、東大寺公式ホームページに、三月堂の修理期限が、
2012年12月予定だったところを、須弥壇の予想外の劣化により、
2013年3月末日に延長した旨注意書きがありますので、
何かそのあたりの事情で特別展終了時期にも変化があるのかなと思いました。
訪問をお考えの方はご確認下さい。



外へ出ると雨もしとしと降りになっています。
とにかく大仏を見せれば興味をもってくれるかと、大仏殿へ。
手前の八角燈籠でさっきのミュージアムの話をしますが聞く耳持たず。
その上、あろうことか、大仏殿の中へ入っても、

「大仏って、どれ?」

・・・目の前にどーーんと座っているでしょう!と言っても、

「あの、金色のたくさんいるやつ?」

そ、それは光背の化仏!!!(大焦)

どうやら息子にとって大仏とは、黄金のきらきらしいものだったらしく、
現在の大仏の姿はまことに拍子抜けだった様子・・・。
ただ、手前に展示されていた、台座蓮弁の模型には興味を持ったので、
描かれている当時の世界観を説明しようとして・・・
あまりのうろ覚えに涙をのみました、勉強したいと思うのはこんな時ですね。


その後実は、二月堂・三月堂方面を断念し、
子供が社会で習って興味を持ったというので正倉院の正倉と、
私が是非見たかったので戒壇院へまわったのですが、
なんと前者は今年から平成26年まで整備工事のため外構見学中止、
後者は法会のため10日まで一般拝観中止・・・呆然としました、
きちんと事前に調べるべきですね。


☆なお、この正倉院正倉整備工事は、期間中5回の見学会が予定されているそうです。
第一回が、来春、平成24年3月16,17,18日にあります。
申し込みは往復はがきのみ、締め切りは12月9日だそうです。
詳細は宮内庁ホームページをご覧になってください。


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山田寺、飛鳥寺 [寺・仏像など]

2011年10月20日。
子供の修学旅行の一日を使って、日帰りで飛鳥へ。
奈良ではなく、飛鳥へ。

繰り返し書くにはわけがあります。
毎年、正倉院展にあわせて奈良に入りますが、
飛鳥まで足をのばすことができないまま、
もう何年も何年もたってしまったから。
最後に飛鳥に入ったのはいつだったのか。

歩いたり、貸し自転車を使ったりしてゆっくりまわっていたのは、
思い出せる限り25年も前になってしまいました。
もう、歩けず、自転車も恐い年齢と体力になってしまった今、
若い頃、できる無茶をしておいてよかったと、懐かしく思います。

今年は飛鳥資料館で「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」展があるので、
正倉院展とは別のこの時期に来ることにしたのです。
この特別展のことは別に書きました

まったく知らなかったのですが、この資料館の常設展示の一画に、
復元された山田寺東回廊が鉄枠に支えられてひっそりと佇んでいたので、
非常に驚きました。
念のため確認しましたが(この資料館はレプリカが多いため。笑)実物だそうで!
いつから展示されているのか聞いたら、10年くらい前ですかねえと、
気乗りのしないお返事。
なでこんなものすごいもの、もっと宣伝しないのか、
いついつこれこれの経緯でここに復元したと勢いこんで教えてくれてもいいものなのに!と、
部外者なのになぜか歯噛みするほど悔しくなりましたが、
飛鳥の地にあればごく当たり前の光景、遺品、騒ぐほどのものではないのかもしれませんね。

復元展示は1997年が最初のようですね


山田寺東回廊、これが土中から、倒壊した当時の姿そのままで、
連子窓も美しく発見されたのは、1982年でした。
他のどんな貴重な遺跡や遺構、古墳の発掘にもまして、
当時の建物がそのままの姿で出てきたことは心を深く刺激し、
新聞やテレビを賑わすその情報に強く憧れて、
学生だったその年の秋、早速山田寺を訪ねました。

一般公開日でも何でもない時期で、はたして寺域に入れるのかどうかすら、
確認することも思いつかないおぼつかない道行でしたが、
道から普通に続く発掘現場で、そこここのブルーシートの合間に見つけた、
少し深く掘り下げられた四角い穴の中、
底のぬかるみにうずまった遺構を見ることができました。

それからだいぶして再度訪ねたときは、ただ小さなお堂が残るだけで、
特に遺跡らしきものはなくなっていた・・・と、思っていました。
今回資料館の人も、今ではただ広場になっているだけ、とおっしゃっていました。

それでも、こんな風に回廊と出会ってしまったので、
呼ばれる様にまた、山田寺へと足を運ぶことに。


10月なかばすぎだというのに、真夏を思わせる暑い午後の日ざしをうけて、
さして遠くないはずですが道の記憶がない不安の中、
へばりかけながらゆるい坂道を登ります。
黄金色に輝く稲穂のたわみと、
それをピンクで縁取る如く濃く薄く咲いたコスモスの明るさに励まされて、
山田寺あちらの標識に沿って小さい村道を曲がると、
かすかな記憶通りの、小さなお堂。

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光の柱が立ちましたね。

それから館の方が言ってらした通り、奥には野原が広がって・・・いると思ってよく見たら、
何か遺跡の表示らしきものが遠くに見えます。

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それで東側にまわってみると、野原ではなくて、ちゃんと、伽藍の基壇などが復元整備されて、
説明版などもありました。

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特に今の本堂の裏側にあたる、おそらく金堂の基壇部分の眺めは、
遠く金剛・葛城のあたりまで見はるかせ、吹く風も切ない郷愁に満ちていました。

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人の姿もなく、歩けば草虫がてんでに飛び出す場所でしたが、
下草はよく刈り込まれて誰かの手の存在を濃厚に感じさせます。
臍をかむ思いで命を絶っただろう、遠い昔のこの寺の最初の発願人のこと、
それから随分たって強奪されたまま、今も興福寺にある本尊仏頭のこと、
現代を当たり前に暮らしている私には想像するのも重過ぎる、
連綿と続く人の心の蠢きを、足元の草からも感じる様でした。


それからどうしても行っておきたかった、飛鳥寺へ。
地図で見てもわずかな記憶を頼っても、山田寺への道と距離はさほど変わらない、
と思って来た道をてくてく戻りましたが、道路標識に飛鳥大仏3.7キロ、とか、
それくらいの数字を見つけて断念。
タクシーを呼ぶつもりで資料館まで戻ると、ちょうど来た檜隈行きのバスに乗れました。
1時間に1本ほどの様です。

このバスが、何これどこ通っているの!?と、普通よりはうんと小型のバスですが、
両側の軒がくっつくのではと思う様な狭い道をやたらと曲がりながら進みます。
ご存知の通り、飛鳥は全域が歴史的風土特別保存地区指定で、
厳しい建築規制で通常の住宅が建てられませんから、
まるで御伽草子の様な懐かしい家並みの中をバスが行くのが、
どうにもかえって異次元に迷い込んだ様なおかしな気持ちにさせてくれました。


そうして到着した飛鳥寺。

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はじめて訪ねた高校の修学旅行の時に比べれば、
本堂も建て替えられ、周囲も綺麗になって驚いた時期もありましたが、
今はやはり、そこだけぽつんと小さく残るお寺、という印象が強いです。
観光客は流石にたくさんいて賑やかでしたが、
みな、ここで何を見ていくのでしょうか。
否、ちゃんと、見ているのでしょうか。
止まっている時を。
続いている歴史を。


このお寺は、相変わらず、変わっているなあと思います。
聖にも俗にも傾かず、
権高くもないけれど親しみやすいわけでもない。
のどかな風景の中にあってここだけなんだかせわしなく、
たしかにお寺なのに、お寺らしさを感じない。
不思議は更に続きます。

まず本堂。
さして大きくないというより、せっかく建て替えてもやっぱり小さなお堂です。
以前より手前の供物の場所の分遠くなった気がしますが、
丈六の仏像では全国でも一番近くで拝観できる一箇所ではないでしょうか。

そして、風です。
本堂に座ると、いつも、入り口から奥に向かって、風が吹いています。
この日も、外は蒸し暑くこそあれ、風など感じなかったのに、
堂内に座ると、心地良い風がむしろ強く吹き渡っていました。
・・・扇風機?確認してきませんでしたが、
たしか以前訪ねたときも、風が不思議で探してみましたが、
人工的なものはなかったと記憶しています。
誰の心にも、明日香風、という言葉が浮かぶに相応しいお堂です。

そして一番不思議なのが、おおらかな写真許可と、
時々始まるあまり熱意のこもらない解説でしょうか。


昔聞いた話です。
飛鳥寺の釈迦如来像、向かって右からのお顔は、
厳しい、過去。

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中央からのお顔は、
平静を保つ、現在。

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そして向かって左からのお顔は、
優しい、未来。

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堂内を携帯で撮ったので写り具合がよくありませんが、
そんな風に見えるでしょうか?
焼失損壊でほとんどが稚拙ともいえる補修姿、
おそらくわずかに杏仁形の御眼と周辺、御指の一部などだけが往時の姿ではないかと言われ、
お顔も無惨な傷あとばかりのこの像です。
けれど高校生だった私が、天啓ともいえる何かを得た像です。



それからもうひとつ不思議なところ。
建て替えてもやはり、回廊・・・というより普通のお宅の廊下沿いに、
出土品や関係する資料が展示されているところ。
その廊下を歩くとすぐ、小さな中庭があって、そこには南北朝や室町時代の石灯篭などが、
ごちゃっとまとめて置いてあります。
簡単な説明板も見え隠れし、およそ「庭」の風情とは遠いにも関わらず、
なんとはなしに、気に掛かります。

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こうして廊下をぐるっとまわって入り口に戻され、
靴を履いてさようなら、なのですが、その手前の樹の葉裏に、
こんな虫の抜け殻が。
ぴんぼけですが。

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うといのでセミなのか他の虫なのか、
今の時期にこんな人目につく場所にぶらぶらしているものなのか、
もしかしたらおもちゃなのか・・・
もうさっぱりわかりませんが、
出会ったのは縁。
見過ごすことができなくて・・・。


帰りもまた、1時間に1本のバスがあと3分もすれば来るという時間で、
ありがたくそのままバスで近鉄橿原神宮前駅へ。
真新しい黄色い帽子をかぶった小学生がたくさん乗っていて、
三々五々とあちこちのバス停で降りて行きました。
全然関係もないのに、各地から集められた采女に思いを馳せました。



飛鳥に入って、飛鳥を出る時、
耳成・香具・畝傍の大和三山と、
東の三輪山、西の二上山を確認するのを常とします。
今は建物に埋もれ、近鉄の車窓から切れ切れに見えるだけですが、
ここが、飛鳥。ここが大和。
古代の人たちが、常に眺めて暮らしたしるべの山です。

そうして懐かしい飛鳥は、押し返される様な不思議な拒絶感に満ちていました。
見えない透明なゴム鞠に包まれていて、入っていこうとすればするほど、
気づかぬうちに強い力で押し戻されているような。
苦しいほどの。
どうしてでしょうね。

もしかしたら。
橿原市から明日香村に入ったとたんに、忽然と現れる、
守られた日本の農村の原風景のあまりの不自然さに、
ジオラマを見ている様な言いようのない気持ちになった、
そのことと関係があるのかもしれません。

拒絶されても、触れられなくても、
焦がれる思いは変わりません。
親に捨てられた子でも親を恋うように、
やはり私は飛鳥が好きです。



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2009年・秋旅4(完) 唐招提寺 [寺・仏像など]

奈良大和郡山斑鳩線

奈良県の県道9号は、こんな魅力的な名前で呼ばれているそうです。
wikiによれば、三条大路五丁目交差点を起点として中宮寺東交差点まで、とありますが、
地図で見れば平城宮跡の西端を南下して西の京を通り、
九条あたりで西に折れて郡山城を迂回し、法起寺前を通って法隆寺へと続いて見えます。

近鉄の接続が悪かったのと、朝と昼過ぎの事故でダイヤが乱れていたのとで、
興福寺を出てとりあえず西大寺駅まで来たものの、
唐招提寺へは、降りてタクシーを使うことにしました。
その際、この奈良大和郡山斑鳩線を走って唐招提寺に向かうのです。

主要県道なので狭い割りに交通量が多く、
決して古都の風情を感じる余裕のある道ではないのですが、
それでも、傾き始めた柔らかな秋の陽射しに、
ぽつぽつ残る畑地らしき枯れかけた緑や、
ため池なのか小さな水場がキラキラ光ると、
懐かしい気持ちになってしまいます。

やがて右折して秋篠川を渡るとすぐ、角のところで大きな工事をしていました。
タクシーの運転手さんが、唐招提寺が何か作っている、と言ってましたが、
お寺で確認してこようと思って忘れてしまいました。

今年、正倉院展とともに目的だったのは、興福寺の「お堂で見る阿修羅」と、
平成大修理完成後の唐招提寺金堂を訪ねることです。
11月1日~3日までの落慶大法要の後、4日から一般公開が開始されたのです。



南大門に停滞する団体さんをくぐりぬけて境内に入ると、
懐かしい金堂が。
2000年の秋、工事用の青いビニールシートの向こうに、白く見えた曇天、
あるべきものがそこになかった、あの衝撃から9年。
記憶よりも、少し、少しだけ、本当にわずかに鋭くなったような印象とともに、
また、このまろやかな御堂に巡りあえた。

心急くままに正面柱に駆け寄れば、
その甘やかな丸みさえも大切すぎて、触れることも躊躇われ。
そっと金堂のほの暗い扉内に目をうつせば、
9年の年月など何ほどとも感じさせぬ、三尊の巨きな輝き。
いつもなら「ただいま」とつぶやく所、この日ばかりは「おかえりなさい」と囁いて、
小さく目を閉じ手を合わせ。

その時、ふわりと身を包んだのは、清しい木の香。

大きな柱たちのうち、新しくしたものは背面扉右側の一本だけと聞いた。
他は全て、古材を再度使ったと。
それなら細かい部分の新材の香りだったのか・・・それとも、
1300年前の古木が、大切に磨かれて今また鮮やかに香ったのか。

そしてどれほど千手の手を眺め、
盧舎那の瞳をのぞきこみ、薬師の腹を見ていただろう。
飽きることなど不可能なこの時間に終止符を打つのはいつも、
帰路の新幹線の指定券という無粋さ。
否、現実に生きていかなければならないという、ただそのこと。
さなくばこの吹き放ちの柱の影に、ずっと座って潰えて悔いないものを。


この寺に来たなら、鑑真和上の心意気に、微々も微々たる庶民ながら応えるためにも、
戒壇をだけは覗くように、なんとはなしにそう思って、西へまわれば、
小さな池に、紫の・・・アヤメなのか菖蒲なのか、そんな花がこの時期、
咲いているとも思えないのに、3つ4つ、綺麗に花をつけていた。

取り巻く築地に作られた小さな門越しに見える戒壇は、
黒灰色の寂しい石段で、
上に白い小さな仏塔を、これも寂しげに戴いて、
和上の熱かったであろう想いの、今はこれだけが形なのかと、
やはり、胸の潰れる思いが去来。

けれど、まだよちよち歩きの、小さな子を連れた若い夫婦が、
同じく門越しに覗き込んで、何か話しているのを見れば、
その会話がたとえ信仰とは無縁のものだとしても、
幼子の目の記憶の底に戒壇が沈むのなら、
それだけで和上の想いは消えずに続くのだと、少し明るい気持ちにも。

今年まわったのは、あと、講堂と、礼堂真ん中を抜けて新宝蔵。
御影堂のほうへはまわれなかった。
講堂も懐かしく、あの独特の雰囲気は他には知らないし、
新宝蔵には二度と空へ上がれなくなった創建当初の鴟尾や、
唐招提寺のトルソーと呼ばれる壊れ仏が、
9年前、薄暮れの雨の講堂で私を睨んでいた薬師如来などとともに並んでいる。
靴を脱いであがるこの宝蔵も、人さえいなければ、真ん中で座り込んで、
私はきっと動けなくなる。

後ろ髪を断髪する気分で南大門まで戻れば、
あとは全て諦めて、帰路につくのみ。
ここまで来て、そして西の京駅まで歩いて、それでまた、
薬師寺に寄れなかった・・・こんなことの繰り返しで、
なかなか、聖観音像に再会かなわずにいるけれど、
来春奈良博で開催の「大遣唐使」展におでましになるらしい。
うっかり、そんな時に限って薬師寺再訪してしまわぬよう、気をつけなければ・・・


訪ねた日 2009.11.9
書いた日 2009.11.24

2009年・秋旅3 興福寺「お堂で見る阿修羅」 [寺・仏像など]

「お堂で見る阿修羅」

響きはとても魅力的。
お寺を巡り仏像を見ることが好きな者たちにとっては、
いつも国宝館で見るだけだった像たちを、
たとえ仮にでも興福寺のお堂内で拝観できるのは、
心躍るまさに垂涎の企画です。


でも、結論を先に書きます。


「お堂で見る阿修羅」ではなく、「お堂で見る博物館」でした。


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さて、正倉院展を出て、興福寺境内に到着、
目的の「お堂で見る阿修羅」のチケットを購入に向かうと・・・
そこにはチケットを買うだけで数メートルの行列、
嫌な予感とともに待ち時間を見れば、


150分待ち


・・・
共通拝観券で観覧の、北円堂も、1時間待ち。
今更ながら北円堂だけでもこの日訪ねておけばよかったのですが、
翌日が月曜なのですいているだろうと思ったことと、
北円堂は来年でもまた見ることができるからと、安易な結論で、
この日は、1500円でチケットだけ購入し、諦めて宿へ向かうことにしました。


そして翌日。
諸事情で興福寺に到着したのは10時を過ぎてしまいました。
でも、月曜だし~・・・のお気楽さは、
仮金堂が見えたとたんに暗澹たる憂鬱へと転換。
待ち時間は、


180分


となっていました。


仕方ない、並びます、並びましょうとも!
奈良にいるだけでも嬉しい私、まして興福寺の境内ですから、
この地に足が接しているだけで、充分幸せなのです。
・・・気持ちでは本気でそう思って上機嫌でしたが、さすがに、
じわじわ動きながら1時間半もすぎれば、腰が折れそうに痛くなり、
穏やかな秋の陽射しは若さを失った体から水分まで天に吸い上げてしまい、
体力的にはとても辛かったのは間違いありません。

でも、もっとお歳をめした方のほうが多かったですから、
倒れる方を見かけなかったのは、仏たちの加護でしょうか。
また、一番ご苦労なのは、旗を振っているバスツアーのガイドさんだったかと。
この時期のツアーとなれば「お堂で見る阿修羅」は目玉でしょうから、
3時間待ちとて省略するわけにもいかないでしょうし、
ちょうどお昼にもかかる時間。
どのガイドさんも、いつ見ても携帯電話片手にペコペコ頭を下げてらしたのが、
ちょっとかわいそうでした。



幸い2時間半ちょっとで仮金堂入り口に到着。


ところで、仮金堂とは、旧講堂跡地に建っている、正面九間寄せ棟作りの建物、
興福寺にあってはむしろ簡素なお堂です。
昭和50年に、不要になった薬師寺旧金堂を移築したもの。
(室町時代の建築物)
それだけでもややこしくも由緒深げですが、
更に手前の今はなき仮堂(中金堂)に安置されていた、
釈迦如来と、薬王薬上両菩薩(重文)、それに四天王像(重文)が納められました。
(いずれも木造)

国宝天国の興福寺にあって、国宝がないためか、場所柄か、
はたまたこの中途半端なお堂の来歴ゆえか、
いつも閑散と人の少ない場所でした。

はじめて訪ねたのはいつでしたか、
広々と風渡る堂内に、正面の堂々とした釈迦像・・・はあまり印象に残りませんが、
脇侍として並び立つ薬王・薬上両菩薩の、3メートル半もの大きさと、
鎌倉時代にある女性の菩提を弔うために作られたという説明を見て、
静かに強く心打たれたものです。

以来、興福寺を訪ねるたびに、時間さえ許せば必ず寄る、
とても好きな場所となりました。


そんな堂内に、国宝館でしか会えなかった八部衆と十大弟子が、
この時期だけ一緒に並ぶというのです。
取り合わせとしては最高なのですが、さて・・・



待望の堂内に一歩踏み出すと、
常とは違ってかなり暗い中、釈迦と二菩薩像はほぼ元の場所に、
四天王像はもしかしたら少し後ろに押しやられた感じ。
そして須弥壇の手前ぎりぎりの位置取りで、
中央に阿修羅、その左右に八部衆と十大弟子(現存六体)が、
何故か交互に、しかも弟子たちは一歩引いた位置に、
ぐるりと安置されています。
像はおおかた手前を向いていますが、
右端の鳩槃荼(くばんだ)と左端の緊那羅(きんなら)だけは外側を、
つまりそれぞれ右と左を向いての配列です。
(須弥壇がもとからあったかどうかは情けなくも記憶が定かでありません)


最初に頭に浮かんだ一言は、迷わず、

「変・・・」

それは見慣れた堂内が一変していたせいだけではなく、
明らかに時代も雰囲気も異なる像が一緒にされていたということと、
見たこともない配列だったせいが大きいのですが、
でも、そういうお堂はいくらかある中、特に「変」と感じたのは・・・

背後のどちらかといえば巨像の、豊かに肉付いた人間的な姿に対して、
ぐるりにこれ見よがしに並べ立てられた十四の像が、
あまりに細く、華奢で、かつ姿態も不自然に硬直して見え、
あたかもお人形さんを立て並べたように侘しく見えてしまったから。

古い史料や経典などに出ている安置のし方とは違い、
ひたすら阿修羅さまさまで並べているのだから、変に感じるのが当然かと思いました。

でも、ここからが不思議です。
薄暗いとはいえ、東博では高い位置にあったものがここでは視線の高さとして自然でしたので、
じっと見続けていると、いつか八部衆と十大弟子のほうが大きく見え、
果ては後ろの、このお堂のもともとの主たちが、視界から消えてしまうほど、
身内いっぱいに広がりました。
格の差なのでしょうか・・・ただ私が八部衆を好きなためでしょうか。



こう書くと、まるで堂内ではゆっくりできるかの様に見えますが、
いらした方はおわかりの通り、外の行列同様、中も悲惨極まりない状態でした。

中は大きく3つ折りの行列です。
まず向かって右手から入り、一旦須弥壇近くまで進んだ後、
ぞろぞろ列をなして最後方の一段高い場所まで戻ります、これが1折め。
昨今東博でよく見かける、スロープを使った観覧ルートです。
ここでゆっくりしたい人は立ち止まることも可能ですが、
ほとんどが素通りせざるを得ないまま堂内左手に下り、
今度は右へ戻るようにうねうねと行列、これが2折めとなります。

最前列の3折めは、やはり昨今の東博にならってか、
一番前が素通りコース、その手前が立ち止まっても良いコースなので、
スロープから下りて右の2折めへ向かう時に、
素通り最前列希望者は右側、立ち止まり2列め希望者は左側へと、
並び変えなければいけません。

そして、堂内は、何人もの係の方の、
「立ち止まらないで下さい」「割り込まないで下さい」「一方通行ですから戻らないで下さい」
「お急ぎの方は右へお進み下さい」「壁際に寄ってください」
の大音声。
・・・お寺の方もたくさんの人をさばき、かつ文化財に害のないよう必死ですから、
東博あたりの人気展より更に強烈な声が間断なく満ち満ちていました。

しかし一番驚愕したのは、
「お賽銭は手前の賽銭箱へお入れ下さい、仏像に投げる方がいらっしゃいますがお避け下さい」
えええええ!?仏像に!?投げる!?やめてください(大泣)、
ちょっとの過ちで、あの像たちのどこかが欠けでもしたらと思うと・・・
ただでさえ今にも崩れるのではないかと不安な乾漆像、
こんなばかげたお祭り騒ぎで破損させては、ご先祖様にも未来の子孫たちにも、
どう言い訳ができるというのでしょう。


「お堂で見る」
と言われた時、私たちの誰もが、心静かに仏像の前に佇み、
静謐な宗教空間の中、様々な思いを抱きながら像と対峙し、自然と頭を垂れるに至る、
そんな時間をこそ、夢にみるものではないでしょうか。
蛇のごとく並ばされ、立ち止まることも許されずに追い立てられ、吐き出される、
そのどこが、「お堂で見る阿修羅」と言えましょう。
場所が変わっただけの博物館です。

誰を責めることもできませんが、おそらくお寺の方の思惑とも離れて、
「お堂で見る博物館」状態となってしまったのが、
まさに阿修羅像の人気ゆえのことだとは、切ない皮肉です。

そのかわり、興福寺再建建立のための資金集めとしては、
思惑以上の効果があったのでは・・・
瓦一枚寄進するでもない不信心者としては、この騒ぎに乗せられてでも、
多少のお役にたてるのなら、それもいいかなと思う気持ちもないではありません。

それから。
おそらくこれでお役御免となるであろう、仮金堂、
いつも閑散としていたのですから、
最後に続くこんな満員御礼の華やかな日々は、
良い手向けとなるに違いなく、それだけは少し嬉しいのです。



思い出してもため息の出る惨状でしたが、博物館と思えばむしろ雰囲気抜群。
逆転の発想。
それに、仮金堂は充分広いですから、行列を抜けてお堂のすみに退避すれば、
他の方の邪魔になることもなく、佇んでいることはできました。
場所は限られ、また、像は柱や行列に隠れて見えたり見えなかったりもしましたが、
あちらの隅に、こちらの陰にと退避を繰り返し、
堂内には1時間ほどいることができました。
以下はそんな中での乱暴で勝手な感想です、
そう見えた者もいた、という程度です。


阿修羅も好きですが、ここでは、綺麗すぎます。
透明で無表情でした。

十大弟子はみな、苦虫を噛み潰した表情でした。
何度見ても、そう見えました。

あの、どこで見てもいつもほんのり愛らしい微笑みを絶やさなかった、
沙羯羅(さから)ですら、この日は呆れた様に不機嫌な顔をしていました。

迦楼羅(かるら)もまたとがった口を更にとがせらせて、むくれていました。

そして私が一番好きな、五部浄。
怒っていました、ものすごい勢いで、怒っていました。
肩から上しか残らないのを、他の像の足元の位置に安置されていましたから、
最前列をたどればまさに目の前です。
思わず身を乗り出して、小さい子に話しかけるように、
「怒っているの、そう、怒っているのね」
と、語りかけて、すぐに、しまったと首をひっこめました、
私などが赤ちゃん言葉で話しかけていい方ではありません。

この五部浄と、前から二列めに立ち止まって対峙するのが・・・
その遠くを見据える目の、まっすぐ先に立つのが、恐くて恐くて・・・
射すくめられる思いで、そっとその視線に入れば、
胸の痛む程のものすごい重圧で押しつぶされそうでした。
今思い出しても、心に何か、強いものが差し込んできた、
あの短い時間をはっきりと感じられます。


最後に、お堂を出なければならないその間際、再度この空間を見渡せば、
やはり、ぬぐい切れない変な違和感でいっぱいでした。

排出される、という表現しかあてはまらない状態で堂外に出された後、
我知らずふらふらと足が向かったのは東金堂。
昨今ここもまた人は多いとはいえ、狂い咲きのような行列とはまだ無縁。
ほの暗くも風通る静かな堂内で、やっと息がつけた気がして・・・。


それから、新ライトアップなったという北円堂は来年以降の楽しみとして、
西ノ京へと向かったのでした。



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秋空の下の仮金堂と180分待ちの列



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再建中の中金堂基壇越しの南円堂



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仮金堂と、再建中の中金堂基壇越しの東金堂と五重塔 仮金堂を出てすぐのこの一瞬、この角度でだけ、 視界に人が入らない至福の光景を目にすることができました

2009年・秋旅1 三井寺 [寺・仏像など]

11月8日早朝、北関東の家を出て、22年ぶりに三井寺の山門前に着いたのは、
10時半を過ぎた頃。
柔らかな秋の日差しが境内に優しい気配を満たし、
始まりかけた紅葉の賑やかな色彩も、
重厚な歴史の影をほっと安らげるかのようで、穏やかでした。

記憶よりも小ぶりに感じた国宝の本堂。
天智天皇念持仏という絶対秘仏を包んだ厨子は堅く閉ざされ、
その背面周囲に古仏をぐるりとはべらせていました。
脇役めいた立ち位置にこだわる風もなく、
平安から江戸までの造像年の記された木札とともに恬淡と並ぶ数多の像。
昨今、保存・保護の必要からまとめて収蔵庫になど移されてしまったような、
安心だけれどどこか落ち着かない仏像をばかり見ることが多かったためか、
この古きよき時代と言いたい雰囲気の残るお堂は、
佇むだけで充分幸せでした。

本堂脇には有名な三井の晩鐘。
一般の方が撞いても穏やかな音色が染み渡ります。

また逆の脇には、閼伽井屋が。
正式名称園城寺が「三井寺」と呼ばれる所以となった、
天智・天武・持統三帝が産湯につかったという湧き水(井泉)が、
この日もこぽっこぽっと、人恋しがるかのような不思議な音をたてて、
沸きだしていました。

閼伽井屋をまわって少し上に登ると、
孔雀明王の威徳にあやからんためか、はたまた報恩のためか、
7,8羽の孔雀が、広いケージでのんびり飼育されていました。
羽根を広げてくれることこそありませんでしたが、
お寺で生き身の孔雀に会えるとは。

本来、もっともっとゆっくり歩くはずの境内ですが、
切ないかな時間も限られた旅の身空、一番の目的の観音堂まで急ぎます。

大津の町並み越しに、霞む琵琶湖を遠望できる高台のこのお堂は、
西国三十三所観音霊場第十四番札所。
10世紀作の重文、如意輪観音像が安置されています。
三十三年に一度開帳の秘仏ですが、今年の秋と来春は、
花山法皇千年忌結縁ご開帳ということで、特別に公開されています。
(平成21年10月3日~11月30日/平成22年3月17日~4月18日)

これに先立って、今年の春先、東京のサントリー美術館で開催の、
「国宝 三井寺展」
に、この観音像が来ていました。
(前後して大阪と福岡でも開催)

一面六臂のほぼ等身大の坐像、寄木作りです。
右ひざを立ててゆったりと座し、右手第一手を軽く頬にあてて首をかたげた姿は、
愛らしさと色気を同時に纏った魅力的なもの。
お顔もまた、
愛らしく微笑んでいるようでありながら、
泣いているようにもはにかんでいるようにも見え、
果ては諦めて倦んでいるようにさえ見えてくるから不思議でした。
この変幻自在な像を、是非、あるべき場所すなわち安置されているお堂で見てみたい。

それが、今年、三井寺を訪ねた大きな目的でした。

靴を脱いで、そっと内陣厨子の背後にまわると、
最奥に、大きいですがどちらかと言えば簡素な御厨子。
その扉に垂らされた金襴の帳を、正面のみわずかに開いた荘厳の中、
ほの暗い明りに抑えた金色で浮かび上がったのは、
春先に会ったと同じ、移ろう様々な表情の、あの観音像。

その瞬間、思わず会心の笑み。
ぱあっと顔が明るくなり、満面の笑みとはこのことと言わんばかりの笑顔になったのが、
自分でもわかりました。
・・・仏像の前でひとり破顔一笑する人間も、そうは多くあるまいと、
説明のために待機してくださってるお寺の方の手前、かなり恥ずかしくなりました。

けれど、歓喜せずにいられましょうか。
金襴の帳のために全体像は見えず、わずかな開口部正面からは、
右頬に添えた手がしなるようにこの上なく美しく、
整った丸いお顔をそっと支える様が艶冶に見えます。

右に寄り、左に下がりして覗き仰げば、
絶妙の調和を保った6しなりの腕が、暗い御厨子の中からほの見えてきます。
そのそれぞれの、持物を含めた表情の豊かさ。

そうしてそのお顔は、のびやかな眉にそっと伏せた薄いまぶた、
こじんまり整った鼻と唇が、ふくらかな頬を一層まろやかに見せます。
春の印象と同じく、
愛らしい少女の、はにかんで微笑むようでありながら、
艶やかな女身の、全てを諦めて倦んでいるようにも見え。

「人は幾年経ても 相も変らぬの・・・」

そんな声が涼やかに御堂を伝うようです。

三十三年が仏にとっていかほどの長さかは人の身で推し量ることもできませんが、
開帳のたびごとに、いつ見てもいつ見ても、
群がる人々は同じ煩悩を抱えて同じように少しだけ頭を下げて去っていく。
たまに輝く人物がいたとしても、三十三年の後には鬼籍へと連れ去られ、
あるいは生きるために輝きは磨耗して。
そんな繰り返しに、倦み諦めながら、立ち去ることなくサラリと座し続ける。
人がかくも同じことを繰り返して飽きないのならば、
わが身もともにこのままここに、在り続けよう。
教え導き諭し引き上げる仏ではなくてこれは人のすべてを受け入れて側にいてくれる仏。
心惹かれたのはそこだったのかもしれません。

存在のおおかたを厨子の中の闇で過ごすこの像の、
沈んだ金色の丸いお顔をじっと見ていると、
闇と光が逆転する瞬間がありました。
その、闇に浮き上がってよりくっきりと輝くお顔に、
香炉から漂い上る薫煙のゆらゆらとした軌跡が儚く重なった時、
我知らずぽろぽろ涙がこぼれました。
仏像を見ながら宗教としての仏教とは距離をおくことを身上としていますが、
法悦、というのは、こういうことなのだろうと、思いました。

厨子の前はほとんど人ひとりが通れる程度の狭い通路で、
次から次へと訪れる人々の邪魔をしないように後方待機、
流れが途絶える一瞬を狙って厨子の前に進み出ることを繰り返し、
小一時間いたでしょうか。
後ろ髪をひかれながら、次の目的地、正倉院展へと向かいました。


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三井寺本堂



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穏やかな紅葉



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観音堂



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観音堂でみつけた、鸚鵡の土鈴



訪ねた日・2009.11.8
書いた日・2009.11.13

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