山田寺、飛鳥寺 [寺・仏像など]
2011年10月20日。
子供の修学旅行の一日を使って、日帰りで飛鳥へ。
奈良ではなく、飛鳥へ。
繰り返し書くにはわけがあります。
毎年、正倉院展にあわせて奈良に入りますが、
飛鳥まで足をのばすことができないまま、
もう何年も何年もたってしまったから。
最後に飛鳥に入ったのはいつだったのか。
歩いたり、貸し自転車を使ったりしてゆっくりまわっていたのは、
思い出せる限り25年も前になってしまいました。
もう、歩けず、自転車も恐い年齢と体力になってしまった今、
若い頃、できる無茶をしておいてよかったと、懐かしく思います。
今年は飛鳥資料館で「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」展があるので、
正倉院展とは別のこの時期に来ることにしたのです。
この特別展のことは別に書きました。
まったく知らなかったのですが、この資料館の常設展示の一画に、
復元された山田寺東回廊が鉄枠に支えられてひっそりと佇んでいたので、
非常に驚きました。
念のため確認しましたが(この資料館はレプリカが多いため。笑)実物だそうで!
いつから展示されているのか聞いたら、10年くらい前ですかねえと、
気乗りのしないお返事。
なでこんなものすごいもの、もっと宣伝しないのか、
いついつこれこれの経緯でここに復元したと勢いこんで教えてくれてもいいものなのに!と、
部外者なのになぜか歯噛みするほど悔しくなりましたが、
飛鳥の地にあればごく当たり前の光景、遺品、騒ぐほどのものではないのかもしれませんね。
(復元展示は1997年が最初のようですね)
山田寺東回廊、これが土中から、倒壊した当時の姿そのままで、
連子窓も美しく発見されたのは、1982年でした。
他のどんな貴重な遺跡や遺構、古墳の発掘にもまして、
当時の建物がそのままの姿で出てきたことは心を深く刺激し、
新聞やテレビを賑わすその情報に強く憧れて、
学生だったその年の秋、早速山田寺を訪ねました。
一般公開日でも何でもない時期で、はたして寺域に入れるのかどうかすら、
確認することも思いつかないおぼつかない道行でしたが、
道から普通に続く発掘現場で、そこここのブルーシートの合間に見つけた、
少し深く掘り下げられた四角い穴の中、
底のぬかるみにうずまった遺構を見ることができました。
それからだいぶして再度訪ねたときは、ただ小さなお堂が残るだけで、
特に遺跡らしきものはなくなっていた・・・と、思っていました。
今回資料館の人も、今ではただ広場になっているだけ、とおっしゃっていました。
それでも、こんな風に回廊と出会ってしまったので、
呼ばれる様にまた、山田寺へと足を運ぶことに。
10月なかばすぎだというのに、真夏を思わせる暑い午後の日ざしをうけて、
さして遠くないはずですが道の記憶がない不安の中、
へばりかけながらゆるい坂道を登ります。
黄金色に輝く稲穂のたわみと、
それをピンクで縁取る如く濃く薄く咲いたコスモスの明るさに励まされて、
山田寺あちらの標識に沿って小さい村道を曲がると、
かすかな記憶通りの、小さなお堂。
光の柱が立ちましたね。
それから館の方が言ってらした通り、奥には野原が広がって・・・いると思ってよく見たら、
何か遺跡の表示らしきものが遠くに見えます。
それで東側にまわってみると、野原ではなくて、ちゃんと、伽藍の基壇などが復元整備されて、
説明版などもありました。
特に今の本堂の裏側にあたる、おそらく金堂の基壇部分の眺めは、
遠く金剛・葛城のあたりまで見はるかせ、吹く風も切ない郷愁に満ちていました。
人の姿もなく、歩けば草虫がてんでに飛び出す場所でしたが、
下草はよく刈り込まれて誰かの手の存在を濃厚に感じさせます。
臍をかむ思いで命を絶っただろう、遠い昔のこの寺の最初の発願人のこと、
それから随分たって強奪されたまま、今も興福寺にある本尊仏頭のこと、
現代を当たり前に暮らしている私には想像するのも重過ぎる、
連綿と続く人の心の蠢きを、足元の草からも感じる様でした。
それからどうしても行っておきたかった、飛鳥寺へ。
地図で見てもわずかな記憶を頼っても、山田寺への道と距離はさほど変わらない、
と思って来た道をてくてく戻りましたが、道路標識に飛鳥大仏3.7キロ、とか、
それくらいの数字を見つけて断念。
タクシーを呼ぶつもりで資料館まで戻ると、ちょうど来た檜隈行きのバスに乗れました。
1時間に1本ほどの様です。
このバスが、何これどこ通っているの!?と、普通よりはうんと小型のバスですが、
両側の軒がくっつくのではと思う様な狭い道をやたらと曲がりながら進みます。
ご存知の通り、飛鳥は全域が歴史的風土特別保存地区指定で、
厳しい建築規制で通常の住宅が建てられませんから、
まるで御伽草子の様な懐かしい家並みの中をバスが行くのが、
どうにもかえって異次元に迷い込んだ様なおかしな気持ちにさせてくれました。
そうして到着した飛鳥寺。
はじめて訪ねた高校の修学旅行の時に比べれば、
本堂も建て替えられ、周囲も綺麗になって驚いた時期もありましたが、
今はやはり、そこだけぽつんと小さく残るお寺、という印象が強いです。
観光客は流石にたくさんいて賑やかでしたが、
みな、ここで何を見ていくのでしょうか。
否、ちゃんと、見ているのでしょうか。
止まっている時を。
続いている歴史を。
このお寺は、相変わらず、変わっているなあと思います。
聖にも俗にも傾かず、
権高くもないけれど親しみやすいわけでもない。
のどかな風景の中にあってここだけなんだかせわしなく、
たしかにお寺なのに、お寺らしさを感じない。
不思議は更に続きます。
まず本堂。
さして大きくないというより、せっかく建て替えてもやっぱり小さなお堂です。
以前より手前の供物の場所の分遠くなった気がしますが、
丈六の仏像では全国でも一番近くで拝観できる一箇所ではないでしょうか。
そして、風です。
本堂に座ると、いつも、入り口から奥に向かって、風が吹いています。
この日も、外は蒸し暑くこそあれ、風など感じなかったのに、
堂内に座ると、心地良い風がむしろ強く吹き渡っていました。
・・・扇風機?確認してきませんでしたが、
たしか以前訪ねたときも、風が不思議で探してみましたが、
人工的なものはなかったと記憶しています。
誰の心にも、明日香風、という言葉が浮かぶに相応しいお堂です。
そして一番不思議なのが、おおらかな写真許可と、
時々始まるあまり熱意のこもらない解説でしょうか。
昔聞いた話です。
飛鳥寺の釈迦如来像、向かって右からのお顔は、
厳しい、過去。
中央からのお顔は、
平静を保つ、現在。
そして向かって左からのお顔は、
優しい、未来。
堂内を携帯で撮ったので写り具合がよくありませんが、
そんな風に見えるでしょうか?
焼失損壊でほとんどが稚拙ともいえる補修姿、
おそらくわずかに杏仁形の御眼と周辺、御指の一部などだけが往時の姿ではないかと言われ、
お顔も無惨な傷あとばかりのこの像です。
けれど高校生だった私が、天啓ともいえる何かを得た像です。
それからもうひとつ不思議なところ。
建て替えてもやはり、回廊・・・というより普通のお宅の廊下沿いに、
出土品や関係する資料が展示されているところ。
その廊下を歩くとすぐ、小さな中庭があって、そこには南北朝や室町時代の石灯篭などが、
ごちゃっとまとめて置いてあります。
簡単な説明板も見え隠れし、およそ「庭」の風情とは遠いにも関わらず、
なんとはなしに、気に掛かります。
こうして廊下をぐるっとまわって入り口に戻され、
靴を履いてさようなら、なのですが、その手前の樹の葉裏に、
こんな虫の抜け殻が。
ぴんぼけですが。
うといのでセミなのか他の虫なのか、
今の時期にこんな人目につく場所にぶらぶらしているものなのか、
もしかしたらおもちゃなのか・・・
もうさっぱりわかりませんが、
出会ったのは縁。
見過ごすことができなくて・・・。
帰りもまた、1時間に1本のバスがあと3分もすれば来るという時間で、
ありがたくそのままバスで近鉄橿原神宮前駅へ。
真新しい黄色い帽子をかぶった小学生がたくさん乗っていて、
三々五々とあちこちのバス停で降りて行きました。
全然関係もないのに、各地から集められた采女に思いを馳せました。
飛鳥に入って、飛鳥を出る時、
耳成・香具・畝傍の大和三山と、
東の三輪山、西の二上山を確認するのを常とします。
今は建物に埋もれ、近鉄の車窓から切れ切れに見えるだけですが、
ここが、飛鳥。ここが大和。
古代の人たちが、常に眺めて暮らしたしるべの山です。
そうして懐かしい飛鳥は、押し返される様な不思議な拒絶感に満ちていました。
見えない透明なゴム鞠に包まれていて、入っていこうとすればするほど、
気づかぬうちに強い力で押し戻されているような。
苦しいほどの。
どうしてでしょうね。
もしかしたら。
橿原市から明日香村に入ったとたんに、忽然と現れる、
守られた日本の農村の原風景のあまりの不自然さに、
ジオラマを見ている様な言いようのない気持ちになった、
そのことと関係があるのかもしれません。
拒絶されても、触れられなくても、
焦がれる思いは変わりません。
親に捨てられた子でも親を恋うように、
やはり私は飛鳥が好きです。
子供の修学旅行の一日を使って、日帰りで飛鳥へ。
奈良ではなく、飛鳥へ。
繰り返し書くにはわけがあります。
毎年、正倉院展にあわせて奈良に入りますが、
飛鳥まで足をのばすことができないまま、
もう何年も何年もたってしまったから。
最後に飛鳥に入ったのはいつだったのか。
歩いたり、貸し自転車を使ったりしてゆっくりまわっていたのは、
思い出せる限り25年も前になってしまいました。
もう、歩けず、自転車も恐い年齢と体力になってしまった今、
若い頃、できる無茶をしておいてよかったと、懐かしく思います。
今年は飛鳥資料館で「飛鳥遺珍-のこされた至宝たち」展があるので、
正倉院展とは別のこの時期に来ることにしたのです。
この特別展のことは別に書きました。
まったく知らなかったのですが、この資料館の常設展示の一画に、
復元された山田寺東回廊が鉄枠に支えられてひっそりと佇んでいたので、
非常に驚きました。
念のため確認しましたが(この資料館はレプリカが多いため。笑)実物だそうで!
いつから展示されているのか聞いたら、10年くらい前ですかねえと、
気乗りのしないお返事。
なでこんなものすごいもの、もっと宣伝しないのか、
いついつこれこれの経緯でここに復元したと勢いこんで教えてくれてもいいものなのに!と、
部外者なのになぜか歯噛みするほど悔しくなりましたが、
飛鳥の地にあればごく当たり前の光景、遺品、騒ぐほどのものではないのかもしれませんね。
(復元展示は1997年が最初のようですね)
山田寺東回廊、これが土中から、倒壊した当時の姿そのままで、
連子窓も美しく発見されたのは、1982年でした。
他のどんな貴重な遺跡や遺構、古墳の発掘にもまして、
当時の建物がそのままの姿で出てきたことは心を深く刺激し、
新聞やテレビを賑わすその情報に強く憧れて、
学生だったその年の秋、早速山田寺を訪ねました。
一般公開日でも何でもない時期で、はたして寺域に入れるのかどうかすら、
確認することも思いつかないおぼつかない道行でしたが、
道から普通に続く発掘現場で、そこここのブルーシートの合間に見つけた、
少し深く掘り下げられた四角い穴の中、
底のぬかるみにうずまった遺構を見ることができました。
それからだいぶして再度訪ねたときは、ただ小さなお堂が残るだけで、
特に遺跡らしきものはなくなっていた・・・と、思っていました。
今回資料館の人も、今ではただ広場になっているだけ、とおっしゃっていました。
それでも、こんな風に回廊と出会ってしまったので、
呼ばれる様にまた、山田寺へと足を運ぶことに。
10月なかばすぎだというのに、真夏を思わせる暑い午後の日ざしをうけて、
さして遠くないはずですが道の記憶がない不安の中、
へばりかけながらゆるい坂道を登ります。
黄金色に輝く稲穂のたわみと、
それをピンクで縁取る如く濃く薄く咲いたコスモスの明るさに励まされて、
山田寺あちらの標識に沿って小さい村道を曲がると、
かすかな記憶通りの、小さなお堂。
光の柱が立ちましたね。
それから館の方が言ってらした通り、奥には野原が広がって・・・いると思ってよく見たら、
何か遺跡の表示らしきものが遠くに見えます。
それで東側にまわってみると、野原ではなくて、ちゃんと、伽藍の基壇などが復元整備されて、
説明版などもありました。
特に今の本堂の裏側にあたる、おそらく金堂の基壇部分の眺めは、
遠く金剛・葛城のあたりまで見はるかせ、吹く風も切ない郷愁に満ちていました。
人の姿もなく、歩けば草虫がてんでに飛び出す場所でしたが、
下草はよく刈り込まれて誰かの手の存在を濃厚に感じさせます。
臍をかむ思いで命を絶っただろう、遠い昔のこの寺の最初の発願人のこと、
それから随分たって強奪されたまま、今も興福寺にある本尊仏頭のこと、
現代を当たり前に暮らしている私には想像するのも重過ぎる、
連綿と続く人の心の蠢きを、足元の草からも感じる様でした。
それからどうしても行っておきたかった、飛鳥寺へ。
地図で見てもわずかな記憶を頼っても、山田寺への道と距離はさほど変わらない、
と思って来た道をてくてく戻りましたが、道路標識に飛鳥大仏3.7キロ、とか、
それくらいの数字を見つけて断念。
タクシーを呼ぶつもりで資料館まで戻ると、ちょうど来た檜隈行きのバスに乗れました。
1時間に1本ほどの様です。
このバスが、何これどこ通っているの!?と、普通よりはうんと小型のバスですが、
両側の軒がくっつくのではと思う様な狭い道をやたらと曲がりながら進みます。
ご存知の通り、飛鳥は全域が歴史的風土特別保存地区指定で、
厳しい建築規制で通常の住宅が建てられませんから、
まるで御伽草子の様な懐かしい家並みの中をバスが行くのが、
どうにもかえって異次元に迷い込んだ様なおかしな気持ちにさせてくれました。
そうして到着した飛鳥寺。
はじめて訪ねた高校の修学旅行の時に比べれば、
本堂も建て替えられ、周囲も綺麗になって驚いた時期もありましたが、
今はやはり、そこだけぽつんと小さく残るお寺、という印象が強いです。
観光客は流石にたくさんいて賑やかでしたが、
みな、ここで何を見ていくのでしょうか。
否、ちゃんと、見ているのでしょうか。
止まっている時を。
続いている歴史を。
このお寺は、相変わらず、変わっているなあと思います。
聖にも俗にも傾かず、
権高くもないけれど親しみやすいわけでもない。
のどかな風景の中にあってここだけなんだかせわしなく、
たしかにお寺なのに、お寺らしさを感じない。
不思議は更に続きます。
まず本堂。
さして大きくないというより、せっかく建て替えてもやっぱり小さなお堂です。
以前より手前の供物の場所の分遠くなった気がしますが、
丈六の仏像では全国でも一番近くで拝観できる一箇所ではないでしょうか。
そして、風です。
本堂に座ると、いつも、入り口から奥に向かって、風が吹いています。
この日も、外は蒸し暑くこそあれ、風など感じなかったのに、
堂内に座ると、心地良い風がむしろ強く吹き渡っていました。
・・・扇風機?確認してきませんでしたが、
たしか以前訪ねたときも、風が不思議で探してみましたが、
人工的なものはなかったと記憶しています。
誰の心にも、明日香風、という言葉が浮かぶに相応しいお堂です。
そして一番不思議なのが、おおらかな写真許可と、
時々始まるあまり熱意のこもらない解説でしょうか。
昔聞いた話です。
飛鳥寺の釈迦如来像、向かって右からのお顔は、
厳しい、過去。
中央からのお顔は、
平静を保つ、現在。
そして向かって左からのお顔は、
優しい、未来。
堂内を携帯で撮ったので写り具合がよくありませんが、
そんな風に見えるでしょうか?
焼失損壊でほとんどが稚拙ともいえる補修姿、
おそらくわずかに杏仁形の御眼と周辺、御指の一部などだけが往時の姿ではないかと言われ、
お顔も無惨な傷あとばかりのこの像です。
けれど高校生だった私が、天啓ともいえる何かを得た像です。
それからもうひとつ不思議なところ。
建て替えてもやはり、回廊・・・というより普通のお宅の廊下沿いに、
出土品や関係する資料が展示されているところ。
その廊下を歩くとすぐ、小さな中庭があって、そこには南北朝や室町時代の石灯篭などが、
ごちゃっとまとめて置いてあります。
簡単な説明板も見え隠れし、およそ「庭」の風情とは遠いにも関わらず、
なんとはなしに、気に掛かります。
こうして廊下をぐるっとまわって入り口に戻され、
靴を履いてさようなら、なのですが、その手前の樹の葉裏に、
こんな虫の抜け殻が。
ぴんぼけですが。
うといのでセミなのか他の虫なのか、
今の時期にこんな人目につく場所にぶらぶらしているものなのか、
もしかしたらおもちゃなのか・・・
もうさっぱりわかりませんが、
出会ったのは縁。
見過ごすことができなくて・・・。
帰りもまた、1時間に1本のバスがあと3分もすれば来るという時間で、
ありがたくそのままバスで近鉄橿原神宮前駅へ。
真新しい黄色い帽子をかぶった小学生がたくさん乗っていて、
三々五々とあちこちのバス停で降りて行きました。
全然関係もないのに、各地から集められた采女に思いを馳せました。
飛鳥に入って、飛鳥を出る時、
耳成・香具・畝傍の大和三山と、
東の三輪山、西の二上山を確認するのを常とします。
今は建物に埋もれ、近鉄の車窓から切れ切れに見えるだけですが、
ここが、飛鳥。ここが大和。
古代の人たちが、常に眺めて暮らしたしるべの山です。
そうして懐かしい飛鳥は、押し返される様な不思議な拒絶感に満ちていました。
見えない透明なゴム鞠に包まれていて、入っていこうとすればするほど、
気づかぬうちに強い力で押し戻されているような。
苦しいほどの。
どうしてでしょうね。
もしかしたら。
橿原市から明日香村に入ったとたんに、忽然と現れる、
守られた日本の農村の原風景のあまりの不自然さに、
ジオラマを見ている様な言いようのない気持ちになった、
そのことと関係があるのかもしれません。
拒絶されても、触れられなくても、
焦がれる思いは変わりません。
親に捨てられた子でも親を恋うように、
やはり私は飛鳥が好きです。
2011-10-23 16:48
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コメント(2)
飛鳥、大和は素朴感がいいですよね。私も昨年楽しみました。東大寺の博物館がオープンしたので、奈良に行きたいと思う今日このごろです。
by Ciel (2011-11-06 23:08)
♪ Cielさん、ありがとうございます。
厳しい規制のお陰で残る素朴さは、お住まいの方の不便はいかほどかと思いつつも、
もうそこそこ遠方を訪ねても残っていないかもしれない懐かしい風景に、
やはりほっとするのですよね。
東大寺ミュージアム・興福寺国宝館・ライトアップ後の法隆寺金堂と、
近年一気に変化した奈良に、ようやくこの週末行ってきました。
たまたま藤ノ木古墳玄室公開日だったので、中に入ってきたりもできました。
そのうち書くと思います、どうにも役に立たない文章ですが(^^;
雰囲気だけでも伝わればと思います・・・。
by まるさ (2011-11-07 08:21)